衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

悲劇の断章(あるいは、“壮烈なる「芸術」の悲劇”からの引用)
February 18, 2000
 
English version

(Revised in February 20, 2001)

“祭司? 芸術家が祭司であるならば、その真剣さのみが、われわれにとっての聖(非日常)の顕現を可能にする。だから、その意味においては、祭司としての表現者の真剣さを、笑うべきではない。”

“個の究極的自由の追求者がいる。ひとは、それを「壮烈であった」とか言うのかもしれない。しかし、本当に個の発露が最終目的だとすれば、そのために死に絶えるなど(そんな「芸術」のための悲劇など)笑止である。伝統の保持のための捨て石になる方が、まだ英雄的である。”

“ここでの伝統とは、歴史とともに発展した後、ある時代を席巻した「或る様式」への心理的なこだわり (attachment) では断じてない。「様式」への回帰は、単なる伝統懐古主義に外ならず、それは何か重大な意味を<伝達>することと何らの関連もない。仮にも「様式」への回帰が、手段としてのみ意味を成したとしても。”

“伝統とは、生きるに値する我々全生命のための欠くべからざる手段であり続けた。そして、それは個の活き方と、そも何の関わりもなかった。しかし同時にそれぞれの個の救済とに関わりがあった。これがわれわれが今日最初に見出した気付かれざる逆説であった。だから、伝統がまだ生きていた世界においては、個の発露のための「表現」や「自由の希求」など、全体においては単なる狂気であり狂喜であるに過ぎなかった。”

“それは、伝統の無慈悲が、生きのびるための規律 (discipline) であり、人類の「正常さ」への方法であったゆえである。それを究極的な俗の世界の価値観でもって伝統世界の価値を過小評価するのであれば、一体何が今われわれを現在のわれわれのようなモノたらしめたのかという原因を忘れることであり、感謝を蔑ろにすることを意味する。”

“無論、想像を絶する長い伝統の時代は、長い蝉の地中に於ける生活の如く、我々の味わっている「自由」と「平和」の最終的分娩のための妊娠期間であったとさえ考えられる。もちろん、分娩は終わっていない。が、生まれ出るものを共に体験することになるわれわれはただこの運命に感謝あるのみ。”

“われわれが、個の発露を通してしか、この「偉大なる創作の歴史」に参加できないのであれば、それを嗜むがいい。だが、飽く迄も、その本来の歴史的な文脈では「意味に非ざる」ものであることを肝に銘じつつ。”

“個の真の発露が、伝統の死の意味付けを成す可能性を否定しない。(とりわけそれがこの壮大なドラマの最期を飾ることであるなら。)逆に、個の自由を追求することによって最後的にもたらされるイベントは、個の自由の獲得との究極的な逆説を意味し、従って個の救済に何の関わりもない。”

“だから、それに気づいた者は、「それ」を活きて死ぬべきである。しかし、これを自覚する場合においてのみ、死に絶えることが単なる悲劇でなくなるのである。”


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