衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

すり替えられた世界

November 16, 2001
 
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14日の朝を境に世界がまたがらっと変わった。朝起きると、カーブルからタリバンが撤退して「総崩れ」になったという噂やニュースで持ちきりになっており、それを境に我々の吸う空気が別のものになった。おそらくこれが「官軍」と「賊軍」の色分けが決まった瞬間なのだ。真実が歴史になるのではなく、力を行使したものの都合が歴史になる瞬間だ。

これまでアメリカ政府の外交戦略や「敵か味方か」の二者択一を迫る大国の傲慢な態度にさすがの親米派さえ辟易している論調が見られたものだし、タリバン指導者のアメリカへの対応の一貫性や「客人」に対する扱いの方針をささえる当然の論理に一部の識者がアプローズを送っていたのだ。しかしそれさえもうはるか昔の話のように思える。それはホンのひと月ほど前の話であったのに。これは我々の心理の完全なシフトだ。一体今回のアフガニスタンへの爆撃の本当の理由は何だったのか? 我々はアメリカの何に対して憤怒を抱いていたのか?

ようやくニュースはタリバン撤退後の町や人々の様子を映し始めた。今後、日を追ってタリバンの「残虐性」や「宗教の問題点」を明かすためのさまざまな「証拠」が出てくるだろう。「なるほどこれならアメリカに攻撃されても仕方がなかったネ」と戦争を止められなかったわれわれが納得するような材料が次々に「明らか」にされるであろう。

問題のすり替えが成功したのだ。このすり替えは単にアメリカ政府の間断ないキャンペーン努力のせいだけではない。またアメリカや日本のメディアが「騙されて協力させられた」せいでもあるまい。それは、我々が何を見たいのか、という理由によるのである。メディアは我々のほとんどが一番見たいモノを見せてくれているだけである。

そもそもタリバンを攻撃する動機というのは、アフガニスタンを戦場にしたかったアメリカの側にあったわけで、しかもそれがタテマエであったとしても、その大義として相手が「テロリストであるから」ではなくて「テロリストを匿っているから」というものであったはずだ。そして世間は常にアメリカがそう主張できる根拠を求め続けていた。根拠を示せずに無理押しをするアメリカにこそ戦争への動機が濃厚であったことは最初から明らかだった。その点についてこそメディアは追及の手を弛めるべきではなかったのであり、タリバン撤退後のカーブルに行って「タリバンから解放された住民」の喜ぶ姿をテレビ画面に映すことではなかったはずだろう。

これから我々がさらにシフトしてゆく方向は決まっている。国連も真相の究明を求めるのではなく、アメリカがすでにやってしまったことの尻拭いに奔走するだろうし、「反テロ」を旗印に掲げた大国のご都合に併せた方針への世界的な転換が進むであろう。そしてそうした状況が我々がこれから暮らしていく世界なのである。我々は我々の怒りを忘れるし、アフガニスタンがいままでより少しはマシになるはずだという希望的観測を胸に抱き、とりあえずは戦争が終わったことで胸をなで下ろすのかもしれない。それがいかに今後のより大きな紛争の始まりであるかは当面忘れることで。「タリバン後」のアフガニスタン情勢の「客観的」分析や専門家の解説に興味津々で耳を傾け続けるに違いない。そしてそれをできる前提とは我々自身のシフトしてしまった心理である。ニュースにナンセンスと感じないで、その論調についていくことのできる自由な「適応性」が、世間から置いてきぼりにされず、また精神破綻を起こさずに生きていくための力なのである。


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