衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

対立と融和

March 6-10, 2003
 
English version

親しくしている「友人」二人が対立しているのを見るのは実に悲しいことだ。とりわけ双方の美徳も弱点(もしそう言って許されるなら)も知っていて、それぞれの言い分を公平に聴くことができる立場に置かれたりすると、その二方の主張の「正しさ」と、彼らの拠って立つ異なる立場によって自分自身が引き裂かれる思いがする。両方とも理解できないならまだ楽だ。しかし、とりわけその愛すべき両者に理解しうる状況と立場があるなら、結局は傍に立っている第三者も苦悩を経験するのだ。

今までは特定の友人を自分で「選ぶ」ことができて、気に入らなければ距離を置き、自分の気に入る方の主張するところに対して、一方的に耳を傾け、とりあえずその人に対する変わらぬ友愛と理解(あるいは恭順)の態度を示すことによって、真に公平であり得ないまでも、とりあえず関係を維持してやっていくことができた。しかし、すでに関わりが始まっている二人の「友人」にとって、それぞれの拠って立つ前提としての立場が選ぶことのできないものであり、そのために互いを許すことができないという状況が生じると、ふたつの全く異なる価値観が自分の内面にも生じ、結果として萌芽したダブルスタンダードに自分自身が引き裂かれる。二人を天秤に掛けているのは自分のようでいて、その実まるで「どっちを選ぶんだ?」と試されているのは自分自身なんだということになる。このような立場に置かれるのは長く生きていればいろいろあるし、仕方がないと言ってしまえば話はそれまでだ。

筆者のこのような意見をナイーヴだと言い切ることができるひとにとって、どちらか一方を選ぶことにためらいを覚えないひとは、もちろん楽ではあろう。「ひとつの出来事に関して真実はひとつであり、両方が正しいと言うことはあり得ない」というような「正論」を吐くこともできよう。が、事態はいつももっと複雑で、ことが生じるに当たっての、そこに至る個人史は常に見た目より長い。そもそも見た目の複雑さとは裏腹で、単純で理に適っていそうな説明の方が大きく事実から逸脱している可能性だってある。クロサワの映画『羅生門』ではないが、どちらも本当そうに聞こえながら完全に相反する主張があり、それならいっそのことどちらも信じないことにしよう、などと思ったりもする。(どうして裁判官は毎度「判決」を下すことができるのだろう。不思議だ。)

筆者は、怒りの感情を維持することが性格上不得手である(どんな感情もそれを維持するためには恐ろしくエネルギーがいる)。良し悪しの問題ではなく、そのようにしかなれないのである。自分の持っている正義感(正しさへの感覚)は、場合によって「ある人を絶対に許すものか」と決心を自分に促すような場合もある。しかし大抵の場合、自分の倫理感を最優先させて自分の怒りを「正当なもの」として持続させることは不成功に終わる。あるいは単に自分こそが間違っていたことが判明する(実は大概の場合がそうだ)のがオチだ。

私は自分がある種の人々に比べて寛容なんだと言いたいのではなく、単に性格上の傾向として怒りを持続させることができず、そもそも間違いやすく、仮に自分の怒りが「正当なもの」であったことが後に明らかになっても、結局は相手の選択がどんな結果を生んだにせよ、不可抗力であったということを遅かれ早かれ実感してしまうことを選ぶ。これは寛容性の問題ではなくて、共鳴性の問題なのだ。そのために、知らず知らずのうちに怒りの対象であった人間と「それまでと同様のお付き合い」の状態に戻ってしまうというのがほとんどだ。私は倫理的なことを頻繁に口にする一方で、倫理的な一貫性を維持することができないほど、お人好しで好い加減な性格であるらしい。

しかしこうも思う。そうした友人の、断じるのでない「好い加減さ」によって私自身、幾度許されてきたことだろうか、と。

そんなわけで、相互に対立する「友人」の二者が、対立する感情をいつまでも持続して関係の正常化に動かないことが、時として信じられなく感じることもあれば、妙に感心してしまうこともあるわけだ。中でも特に信じられないのは、関係を修復不可能なところまで破壊して放って置いても平気な人たちである。私にもかつて図らずもそのようなこと起きたことがある。これは私の人生にとって癒えることのない傷として残った。しかるに、“関係修復できないほどの対立と破壊”を繰り返しているひとにとって、その後の人生というのは一体どうなるのであろう。想像もできないのだ。

私は十分に好戦的な印象をひとに与えているようだ。でも、実は同時に闘争を極度に畏れている。もし闘争をするとすれば、結果としてどこかで必ず融和できる地点に到達するだろうという楽観的な見通しを信じているからそうしている、というのもある。甘えかも知れないし、私の好い加減で楽観的な部分だろう。全面的に対決して勝利を克ち取る等という方法もあるのだろうが、長期的に考えると、勝利を無理やり勝ち取ると、自身が復讐の対象となるのは確実で、かならずしっぺ返しを受ける。対決した上で、無理やり相手をねじ伏せるのでなく、融和できれば、それに越したことはないのだ。

私は一度どこかで、「相手の主張や行動に対してでなく、相手の立場に対する理解は、相手の言動への批判を鈍らせ、最終的には闘争を不能にする」そして「関係はひとつ上の局面に至る」というようなことを書いたことがある。ストックホルム症候群というのは、誘拐(監禁)された被害者が誘拐犯に対して共感を抱き、最終的には仲間意識さえ芽生えることとし、しかもそれをある種病的なこととして定義付けているが、私に言わせるとこれは病的なことでもなんでもなくて、正常な人間の理性の働きだ。われわれが敵を敵だと思い込むことができるのは、相手を知らないからだ。長い人質生活で犯人のことを知ることになってやっと相手の行動を最終的に「理解できてしまう」としても、それは異常なことではなくて、人間の造った法や慣習を超えた、理性や知性といった先天的な包括能力であり、それこそが争いを避けるための才能なのだと考える。もちろん、そのような理解が現実社会で容易な解決を産むと言いたいのではない。そこから二重基準を抱く者としての本格的な苦悩が始まるのだ。

いずれにしても、われわれが相手を許さずに知らん顔できるのは相手を知らないためなのである。相手を知れば知るほど批判はできなくなる。そして相手を批判できなくなるほどの相手への「接近と理解と追究」が最終的な和解を生む。「敵」から距離を置けばそいつは生涯の敵になるだろう。だから、現実にも、敵と思われる人にあえて接近して言論(あるいは何らかの仕方)で一旦ぶつかってみれば、相手の立場に関する理解が一挙に深まることがある。そのために対立と論争と融和という一連のプロセスは敢えて避けるべきものでないという主張があるのだ。そして、その衝突を畏れず、むしろぶつかれるひとだけが得られる最終的な心の平安というものがある。これは私の狭い経験からでも言えるのである。

確かに、相手を自分から進んで許さないというのも立派なおとなの選択であろう。自分の長年築き上げてきた人生観や価値観、あるいは自分の依頼して(あるいは我慢して)いる社会秩序に反する行為を仲間がやることを一旦許してしまえば、そこからあらゆる自分の信じる価値観(や我慢)のほころびが生じる。だからそれを許すわけにはいかないというのは分かる。原則を身を挺して守るというのは、大人の選択だ。そしてそれには立派な理由がある。原則を守ろうとする人々は、総じて責任感が強く、自ら原則を守るために犠牲になることを厭わない実直さを持つ。これがそうした人々の持つ美徳であることに変わりはない。私はそういう人々を何人か知っており、心底尊敬の念を抱く。

しかし一方で、原則というのは、あらゆる例外に対して「あらかじめ破られるため」に存在するとも言える。だから洗練された法体系というのは、あらゆる例外則を持つのだ(複雑さを以て現代の法体系を批判するのは簡単だが)。しかし、原則というものは、明文化されているか否かに関わらず、守るべきと信じられている社会やその秩序が、そもそも人間の幸福のために組織された(はずの)ものであり、そのなかで原則というものは、社会の秩序を守るためと称しつつも、そもそも人間の幸福を守るための一手段として発生したはずのものであり、目的化されてしまったルール遵守を楽だと感じる人々(ルールのための社会)のためにだけ存在するのではないからである。硬直したルール遵守が叫ばれると、あらゆる原則が人を傷つけ人間の関係を損なう害悪と化してしまう。例外なくすべての「正しそうな原則」とそれへの遵守を押し付ける社会が発展するとその先にはファシズムが待っている。

さらに、責任感の強い人々の原則破りに対する非寛容、その罪に対する断じ方は、やがて自分に向けられることがあるかも知れない。どんなに我慢して自分の言動を抑制し、ルールを遵奉し、慎重に生活をしてひとを傷つけまいと完璧を期そうとも、言葉や行動の失敗というのは、やはりままあるものだからだ。そればかりか「善きに計らおう」とした結果、それがまったくの裏目に出てひとに恨まれることすらある。だから、許さないというのも「立派な大人の選択だ」と私は言うのである。しかしそこで敢えて私は、いわば“超法規的”な判断や例外的な寛容を繰り返し期待する。それでも許さないというなら、その「大人の判断」によって引き裂かれる人間が回りに発生するということも知った上でやって頂きたいのである。


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