衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

詫びの機会と詫びの効果
March 9, 2001
 
English version

ついにワドル前艦長が行方不明者の家族にたいして直接お詫びをしたというニュースが出てきた

ワドル前艦長「おわびします」と家族に直接謝罪
【ホノルル8日=桜井陽】米原潜グリーンビルと宇和島水産高校の実習船えひめ丸が衝突した事故で、原潜のスコット・ワドル前艦長が8日午後(日本時間9日昼)、査問会議の会場になっている米海軍施設内で行方不明者の家族5人と会い、「おわびします」などと謝罪した。前艦長は涙を流していたという。これまで家族は、原潜幹部の謝罪を繰り返し求めていたが、前艦長が家族に直接、謝るのは初めて。(3月9日「AOLニュース」より)

ズバリ言って、この事態はわれわれ日本人からすれば超出血大サービスではないのか。むろんワドル氏の謝罪の真意を問うことはできる。彼の良心が自身の罪の重さに堪えきれなかったとか、あるいは日本への個人的慕情がそうさせたのだとか、それとも日米の同盟関係にこれ以上のヒビを入れてはならない、という外交戦略上の圧力がどこぞの方面から掛けられたのだとか、いろいろな可能性が確かに考えられる。ただその理由がどうであれ、今回の謝罪が建前であるにせよそうでないにせよ、「個人的に行われた」ということが重要である。これ自体の意味は非常に重い。軍事訓練(あるいはデモンストレーション)中に起こる「軍務」に関わる過失は、通常ならば軍なり組織の決め事の履行中に起こったことならば、軍のあり方やより高いポジションにその責任が求められるものである。つまり「業務上過失致死」となる。ただし、それが個人的に謝罪したとなれば、自分の過失なり罪を進んで認めたことを意味し、理論上、彼自身の刑事責任を含めてさらなる追求が避けられない。なかなか自分の過失を認めないのが西欧人流のやり方、と簡単にまとめてしまう人はいるが、今回のこの事態で必ずしもそうとも言い切れない事例が出てきたわけだ。

さて、前段はこのくらいにして、わたしは、このニュースを聞いて、天の邪鬼にも「良いのかい、日本人、そこまで他人から与えられて?」とおもってしまったのだった。言っとくが私は米海軍の側でも被害者の家族の側でもない。たしかに、事故発生からすぐに起きた日本人被害者の家族からの謝罪要求、米政府の異例とも言える迅速な対応、日本大使の謝罪、ワシントンポストの日本の謝罪要求に対する批判、それに対する日本のメディアの反応、そして今回のワドル前館長による「個人的謝罪」と続いてきたこれら一連の出来事は、それ自体でそれぞれに論じるに値する様々な要素を含んでいるとは思う。別の機会にそれを行うこともできるようにも考える。いずれにせよ、この日米で起きている「謝罪するしないの応酬」は、今回のワドル氏の直接謝罪でひとつの山を迎えたことになるのだろう。しかし、ここで私が突然結びつけてしまった「あること」をまくし立ててみたくなったのだ。

それは、「われわれ日本人同士はどうなのか、自分たちは一体全体、被害者への満足な対応をしているのか」ということである。

つまりが、国内の交通事故の話だ。一方は二国間の外交問題に発展しかねない大問題で、一方はたかが国内の事故の話だと侮るなかれ。だいたい国内では交通事故だけで毎年1万人前後の人々が死んでいるのだ。このペースは、ヴェトナム戦争で死んだアメリカ人兵士の総数くらいの人口が、日本で5年ごとに交通事故で死ぬ勘定になるのだ。どちらの方が重いという話でもない。ただ、話は違うが、今回のワドル氏の謝罪をきっかけにして、「我が身を振り返ってみようよ」と言っているのだ。

日本ではクルマ対歩行者の事故で家族の一員が死亡しても、身内を轢いた加害者に遺族は謝ってもらうことは疎か、面会することさえもできないと言うではないか。しかもクルマでの過失致死は、それが文字通り「人を殺す」結果になったとしても法的には殺人ではないし、さしたる罰も受けないで、その辺りを案外すぐ歩いていることになる。これっていうのは、各方面のいろいろな事情があるにしても、あまりにズサンな法体系なんじゃないの? 二国間の事故が外交問題でもあると主張する人には、それでは「加害者と被害者の家族」という関係が毎年1万件以上発生しているというのは国家の大問題じゃないのか?

今回の原潜対実習船の事故について言えば、2つの国家間で外交問題に発展しかねない「大問題」になっているのも、2国間が「同盟関係」にあることから、同盟して貰わなければ困る(「おまえを保護してあげよう」の)大国と、同盟してあげている(「あなたに保護させてあげるわ」の)小国との間で、「Honey, もう十分に謝ったじゃないか」「いいえ、あなた、まだ十分じゃないわ、もっと謝ってよ」の応酬としか見えなかった。まあ、いわば痴話喧嘩のみたいなもんだ。一通りのやりとりをして、結局は元の鞘に収まるのである。

それに対して、我が国内の事故事後処理事情(これは早口言葉か?)はあまりにお粗末としか言いようがない。だいたい二者を会わせないと言うことにはなんか法的な根拠があるんかい? 案外慣習として警察の独断でそのような処置をしているだけなんじゃないの? 間違っていたら誰か教えてくれ。もし、加害者と被害者が直接会えることになると、個人的怨恨で復讐が起きる!かも知れないので加害者を「護る」必要があるとも聞いたが、これは本当なのか? 本当だとして現今の処置はそれが本当に主たる理由なのか?

だいたい誰からも直接責められもしないで、刑法に照らしただけで事故の加害者が処理されて終わるというのでは、被害者の「気が済まないだけ」の問題でなく、加害者自体の救済にもならんのじゃないのか? もし過って人を轢いてしまったとしても、やはり被害者の家族から隔離されて済んでしまうより、直接「この人殺しいっ!娘を返せこの野郎!ぶっ殺してやる、き〜っ!」くらい言われた方が救われるのではないか? だってどんな理由であれ、責められるに相応しい結果を自分が車を運転してて、もたらしたわけでしょ?

そこで提案であるが、どんな理由であれ、事故で人を殺した人は、刑期をどうするかは政治家や裁判官にまかせるとして、一旦はちゃんと刑務所に入って貰い、そこで被害者と面会して直接謝罪するという義務を課すのである。直接謝罪を拒否したりそのときの態度が悪ければ、さらに刑期を延ばすのである。被害者の家族にとって、そんな謝罪で死んだ家族は返ってこないだろうが、すくなくともどんな顔をした、どんな人なのか(男なのか女なのか、若い人か老いた人か)ぐらいは分かるし、そいつが刑期を勤めていることははっきりするし、案外それで家族の気も少しは済むかも知れない。その中で一体どれだけの人が復讐を誓ってそれを実行するだろう。それに復讐をすればそれはそれで裁かれる可能性が大なのだ。刑期をちゃんと勤めてそれで済むものでもないかも知れないが、それが法律の定める裁きってやるで、裁きを受けることで加害者も立ち直れるかも知れないではないか。

事故を起こした責任を大なり小なり持っているワドル氏が、立派な人間だと言うわけにはいかないが、すくなくとも被害者の家族が見守る中で「査問」に応え、事故当時の出来事の多くを明るみにする重要な場に出てきて話をしたわけで、しかも彼が本来そうであるところの軍人としてではなく(ということは「業務上過失致死」を起こした業務人としてでなく)事故を起こした一個人として直接家族に対して頭を下げたというではないか。事故を起こしたことは問題だが、その後の彼の対応は多くの日本人の事故加害者よりはるかにいさぎよいのである。


© 2001 Archivelago