衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

ワークシェアリングは技術文明が必ず通らねばならない道

July 19 (March 14), 2002
 
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ここで述べていることは、現代の生産手段合理化の論理や現実的経済理論を無視した主張と思われても仕方がないことかも知れない。あるいは日本において話を限るなら、「日本の技術競争力が日本の“豊かさ”をなんとかここまで持続させてきたのだし、これからも必要だ」と一本気に考える「経済」専門家からすれば、単なるタワゴトに過ぎないだろう。しかし、いかなる科学技術や技術革新によって生産行為が簡略化されても、一向われわれは豊かさを実感することができないばかりか、労働拘束時間は旧態依然としているか、場合によっては明らかに以前より忙しく、不幸な生活様式を強いられる方向へ向かっているとしか思えない。そうした中では今から述べる現状の前提を無視した本質論をあえてぶち上げる意味はあるのではないかと思うのである。

それに最後に若干言及する「ワークシェアリング」というアイデアは、決して実現不可能でも非現実的な絵空事でもないのである。それは徐々に「先進国」の限定的なエリアで導入されつつあり、また日本でさえそれを考えずに済ますわけにはいかない流れが発生しつつあるのである。

【いまさらながらの本質論】
人類は、散々苦労してこしらえてきた「文明の利器」を利用して、生存に必要な生産活動に掛かる時間や労力を大幅に短縮してきた。農作業は機械化を通 じて農作業の多くの過程、たとえばそれまで人力や畜類の助けなどを通 じてやってきた多くの作業が楽になっている。また、道具の生産過程も工業化によって集約的に行われ、少ない人の労力で大量 生産ができるようになった。家庭の仕事も洗濯機、掃除機、炊飯器、はたまたディッシュウォッシャーなどなどの発案を通 してその大部分が自動化され、多くの家庭の主婦が辛い家の仕事から解放された。交通 手段に関しては数日間掛かって徒歩でしか行くことの出来なかった遠距離へ、ほんの2,3時間で到達することも出来るようになった。メッセージ伝達に関しては、届けるのに数日や数週間費やしていたにもかかわらず、いまや文字通 り一瞬で伝達する通信手段が実現している。

そもそもこうした全ての人類の発明や発案、自動化、機械化という流れは、われわれの生活を「便利」にし、それまで味わってきた労苦から解放するために出てきたとも言える。さて、仮に1日8時間掛かって終えていたある種の生産活動があったして、それが機械化などによって4時間で出来るようになったとすれば、われわれは4時間の余暇を儲けることになったはずだ。これはじょうだんを言っているのではない。そもそもそのため(楽になるため)の自動化(オートメーション)であったはずなのだ。ここで人間が本来どのように労働すべきであったか、どのように自然環境と関わってくるべきであったか、というような「倫理」的かつ本質論的な疑問を差し挟むことも大いに可能だが、敢えてそうしない。(ここでは、いったい何の目的で人類が一連の自動化、機械化を目指して来たかを想像しているに過ぎない。)しかしこうした生産活動の時間短縮が現代社会では「生産性が2倍になった」と呼ばれ、また「合理化された」という捉えられ方をされるのである。こうした言い方、「2倍の生産性」も「合理化」も、被雇用者を数百年前とほぼ変わらない時間で拘束するのが当然であるとしか考えられない企業経営者側の旧態依然とした世界観の現れとわれわれ自身の思いこみのためであると言うこともできるのである。「周りのみんなもそうしているから」という位の理由で、合理化された後のわれわれの労働の質や量が問われることはないのである。

いま、「私は8時間掛かる労働が4時間で済んだ場合」という例を挙げたが、現代と比較される過去の一時代や生産活動の分野によっては、「生産性」の点で言うと、2倍どころの騒ぎでない「効率化」が達成されているわけである。先ほど言及した交通手段の洗練を例に取れば、ほんの百数十年前と比べて日本では、20-30分の1の時間に短縮されているわけである。30日掛けて旅をしていたところまで、1日で到達できると言うことは単純計算で30分の1の時間短縮があるわけである。ということは、われわれは洗練された交通手段を得ることで、残りの29日を「儲けた」はずであった。

しかし、われわれは儲けた29日を遊んで暮らすわけではない。それどころか、この時間の短縮は短縮と捉えられなくなり、ある距離を1日で移動するのは当然のことということになる。そして、もうけたはずの29日間を別のビジネス(商売)に当てるわけである。あるいは、8時間から4時間に短縮されて辛い労働から解放されるべきであった人々は、残りの4時間を好きなことをして暮らしたり好きな人と時間を過ごしたりするのではなく、その儲けた4時間を使って別の仕事をするのである。つまり実質的にわれわれは文明の利器を「より多く」稼ぎを得ることに利用しているのであり、「生活の楽」や「利便」のために使っているのでは、結局ない。文明は生産と消費の速度を上げはしたが、真の意味で便利にしてきたわけではなく、むしろ以下の理由によりこうした文明の利器はわれわれをより多忙にしているのである。

それは自分がどう楽になりどう余暇を楽しむのかということを真剣に考えることなく、社会のためあるいは周囲のために「より良いサービス」「より早いサービス」「より便利な商品」を提供するのが使命であると信じ込まされているということがある。だが生産活動の目的が「人様の利便のため」と称しつつ、その実、利便を味わうべき者全員が、労働者として新たな仕事のために互いにしのぎを削りあって走り回っているわけである。これは明らかな文明活動の倒錯した側面である。もちろん、こうした倒錯は現代の経済活動が真に一人一人の幸福のためにあるのでなく、生き残りを主題として競争に勝つことを主目的とした活動となっているからだと説明する人がいるのもわれわれは知っている。

言い換えれば、企業家(資本家)どうしは常に“苛烈な”競争関係にある(でも“苛烈”にしたのは彼ら自身でもある)ので、遊んでいるわけには行かない、などの理由である。しかし、文明活動が人類を幸せにしてこなかったそのあたりのメカニズムを、詳細にわたって論証するのがこの拙論の目的ではない。われわれは決して自分たちを楽にもせず便利な生活も提供してこられなかったのだ、という単純明快な事実をここでは改めて実感して貰えればいい話なのである。

【今さらながらの短い本題】
さて、この論のタイトルにもあるように最近では「ワークシェアリング」という考え方がひろく論議を呼んでいるらしい。

先日テレビで紹介されていたオランダにおけるワークシェアリングの方法の実例は極めて印象深いものであった。私の理解によれば、まずひとつの作業ポジションなり仕事上の責任を二人の人間で共有(シェア)する。それぞれの被雇用者にとって週平均3日が労働拘束日数である。仮にひとりをAとし、もうひとりをBとするなら、Aが週の前半、すなわち月曜日から水曜日まで働き、Bが週の後半、すなわち水曜日から金曜日まで働く。共通する出社日である水曜に、ボス立ち会いのもとでAからBへ(あるいはその逆)の仕事の綿密な引継が行われる。

そもそものアイデアとしては、雇用機会の創出ということが主目的だったのだろうが、例えばそのひとりで出来る仕事を従来通りひとりでやるのではなく、敢えて二人で共有するという考え方には私の前述のような考え方からして、ピンとくるところがあった。もちろん給与を払う側からすれば、こんな非合理はないだろうが、仕事をする側からすれば実に多くのメリットがある。話を卑近にすれば、(そしてその卑近さこそが重要なんだが)仕事に拘束される時間が短縮され自分の人生のための時間を創出することが出来る。(だって、そもそも時間が短縮されて便利になったはずの文明の利器からの恩恵をどうして企業家だけが独占できるのあろう? 技術によって短縮された時間は他でもない働く人々の生活に還元されるべきではないだろうか?)ひとつの内容の仕事をパートナーと共有することで、健康やその他の私的事情で休暇を取る必要のあるときも、共有パートナーに助けて貰うことが出来、またあるいはパートナーを助けることが出来る。いずれにしても週5日連続するサービス提供の体制を変更することなく、仕事や責任の共有により労働拘束時間の短縮を実現し、かつより多くの雇用機会を創出するのである。

もちろん、私の貧困な想像力でも憶測できることが幾つもある。このようなシステムが全ての業態に適用されるとは限らないだろう。また、(仕事自体が趣味であったり、それ自体が生き甲斐なのか単なるワーカホーリックなのかはともかくとして)仕事の共有や労働時間の短縮に興味を持たない殊勝な人々もいるだろう。そういう人は好きなだけその好きな仕事をすればいいのである。おそらくそれを法的に制限する根拠はないだろう。

一方、労働拘束時間が減ることで賃金も減るのではないか、という不安も当然ある。好むと好まざるとに関わらず、(従来通り)ひとの倍仕事をして家族を養わなければならない立場にいる人もいるかも知れない。その場合、仕事の共有や労働時間の削減を社会制度として強制できるのか。こうした方法を取り入れる場合、法律や行政に任せるのではなく、民間やローカルなコミュニティでやりたい人たちから自発的に仕事の共有を始めるべきなのではないかという議論があってもいい。

それとは反対に、一部の地域や民間だけでなく、社会全体を巻き込むことを正当化する議論があるのも故なきことではない。現代社会において好きなことだけを生業(なりわい)にして生活できているひとばかりでない。忌避されがちな仕事というものは厳然と存在する。そうした仕事を多くの人によって支えることにより現在の社会が「便利」に維持されているのだとすれば、一部の単純労働や肉体労働といった共有可能な厳しい労働に関しては、なおさら賃金を保証した上でシェアリングを進めるべきだという考えがあっても良いはずだ。

もちろん制度ということになると、国際的なコンセンサスも必要になる。日本だけの問題でなく、日本企業の国際舞台における技術競争力や生産性の維持が「国家としての日本」の生き残りのために必要だと考える政府や企業家たちにとっては頭の痛い問題である。国際的に同じ競争のルールを策定しなければ、シェアリングを取り入れない国に対してはどうしても競争力的に厳しくなる。だから「多くの人の雇用機会を作る」という相互扶助的な理由だけで彼らがこの制度に対して賛同協力することを期待するのは難しいだろう。その意味で、日本国内だけの問題でなく、それこそ世界を巻き込んだシェアリングへの運動が必要である。

だが、企業家も含めてこれまでの人類の努力が単に「生産性の向上」や「合理化」を目指してきたのでなく、社会に属する一人一人がより自由な創造性を発揮し、豊富な時間を実質的な人生のために真剣に使う(これは実は一部の人間を消費行動に向かわせる可能性もあるんだよ、資本家さん達!)ための近道なのだと考えることが必要だ。年老いて体を動かすのがおっくうになってから引退して、ようやく「自由」になるのでなく、若いうちに多くの自由時間を確保することで、多くの豊かさが追求できることを信じる。週の半分の時間を自己に投資することができれば、多くの人が「今を忙しく働いて稼いで老後のために貯蓄しなければ生き残れない」という考えから解放され、年老いても追求し続けられる本質的なライフワークを発見したり確保したりする機会もぐんと増えるはずである。

ワークシェアリングを通して、多くの点で有り難いことが実現しそうだが、それは単に普段「雇われ人」として生活している私個人の奴隷として儚き夢に過ぎないのだろうか?


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