敗戦記念日の昨日、市民文化フォーラムが主催する「8.15 集会」というのに出た。800人以上が入る日本教育会館の会場が7割方埋まった。針生一郎氏や日高六郎氏が最初の呼びかけ人になったという、今年で第40回を数える8.15のイベントである。全国で似たような「集会」があちこちで開かれたかと思うが、そうしたものの中でも反戦・平和のための闘いを言論を通じて行っていくということに主眼を置いている市民グループのひとつだ。
こうした「集会」へのアプローチをあれこれ評価することは可能であろう。「危険だ」とか「君子危うきに近付かず」とか言われそうな感じである。ま、それを言ったら日本なんか「君子だらけ」な訳である。 参加する意味だが、まずひとつには似た様な考えを持っていそうな講演者の話を聞きに行ったり、自分よりもっと考えていそうな先輩方の話を聞きに行ったりと言うことは、自分はひとりではないと勇気を奮い起こす意味で、それだけでも有益だ。さらに、しばらく選挙がないという事実や、市民のレベルでの声をより高く挙げていくという意味では、沢山の人々の声をひとつにする「集会」の意義はやはり高いと思う。単独で、自分の意見を流すネットにもなんらかの意味はあると信じるが、具体的に自分と共感する人たちが、どのような顔やどのような声で、それを発しているのかを見るのは、また別の意味がある。そして、自分の知らない思想家や活動家の存在、そして市民グループのネットワークの存在を知るのは、将来的にも悪いことではないだろう。そのためには、ネットで言葉を眺めているだけではなくて、足を使ってどこかに出向かなければならないし、共感や賛同の意を表現していかなければならない。隠れてネットをやっているだけでは、本当に「茶色い朝」はやってきてしまうのだ。 ま、意思表示の意味を度外視したとしても、何らかの行動を起こすとしたら、まずは現在世界で起きつつあることや、かつての日本がやったことについて、知ってそうで知らなかった、なんてことが実にまだたくさんあるのである。 それにしても、「友愛」だとか「和楽」だとかいう言葉のアソビみたいなことをスラスラ話していく、小林正弥氏というのは一体何と言うべきなんだろう。「公共哲学」とか、「平和主義の新しい論理」とか、そうした諸理論が自分の頭の中では「学問」的に理路整然とまとまっているのかもしれないが、その話を初めて聞く者の耳には、意味のあるメッセージとして入ってこない。まさに最近どこかで読んだような「立て板に水」と言うような表現で話していく。理論家なんだろうなぁとは思うんだが、まったく共感を得ることに失敗しているような気がした。もとより、人の心に何かを訴えるとか共感を得ようとか、そういうことを最重要課題であると本人は考えていないのかもしれない。 最初、いわゆる「呉越同舟」とか思ったが、そういうのではなくて、こうした平和集会に潜り込んで別の考えを人の心に滑り込ませようとしているんじゃないか、と邪推さえしてしまうのだ。(まぁ、それくらいで自分の考えが分からなくなるようじゃあ、集会に参加したり、読解する側にも問題はあることになるんだけど。)
|