衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

“武装解除”された「国家」の役割

July 4, 2004
 
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現在の日本国憲法は、アメリカから押し付けられた憲法だから、自分たち独自の憲法に作り直すべきだという。今の憲法では現状や現実への対応と合致しておらず、国民の遵法意識にも影響が出る。だから、早く改憲した方が良い、というのが改憲を進めたい人々の最も単純な論法である。

憲法九条が、アメリカによる、旧日本帝国の「武装解除」としての役割が主たる意味合いであったことは、確かだろう。勝利した国家が敗北した国家を支配するために、武装解除する。そして、今後武器を取らないことを誓わせる、というそのやりかたは、戦争というものの目的やその本質を反映したものに過ぎない。負けたものが手を挙げ、武器を置いたのである。

しかるに、今度はアメリカの具体的な要請によって(あるいは、無言の圧力によって)今度は武器を持てと言われているのだから再軍備をしてきた、というのが現実の戦後の動きであった。それで現実と憲法との間に捻れが生じているというわけである。

だが、改憲派の人たちに言いたいのは、アメリカの言われるがままに再武装して、今度は、言われるがままに派兵して、というこうした流れというのは、一体本当にわれわれのためになっているのか、そして、何よりも世界の利益のためになっているのか、という視点でこそ改めて問われるべきなのである。

憲法九条の初期目的が、「敗戦国の武装解除」であろうが何でも良い。われわれにできることは、アメリカに向かって、戦後の対日政策の一貫性をこそ求めるべきであって、むしろ“押し付けられた憲法”を逆手にとって、むしろそれを楯として、「武器を置かせられた者としての責任を果たさなければならないのだ」とアメリカ合州国に向かって、そして、世界に向かって主張すれば良かったのである。それでもアメリカが圧力を加えるならば、合州国の外交政策の非一貫性を世界に向けて宣伝することもできたはずだ。それが、日本の戦後外交の果たすべき役割であったはずだ。そして、世界に向かって新憲法の遵守を何度も確認し、その遵法のための協力を世界に求めれば良かったのである。つまり、「われわれは丸腰です。武器を取るつもりはありません」とアピールするということだ。そうすれば、世界にも類い希なる「武力に拠らぬ民主国家」の誕生がありえたはずである。世界の大半の常識と同じであることなどに、一体何の価値があろうか? 暴力を条件的に肯定するその「世界の常識」のために、世界がやがては滅びて行くしかないとしても、その常識を支持する必要があろうか?

私は、その由来が何であれ、憲法九条が守るべき価値のある明確な理念を持ったものであることを支持することができる。その理由は、非暴力という理想を、国家の根幹に据えるという、かつて存在しようとして存在できなかった「敗戦国ならではの、新しい役割」を謳い上げているからである。そして、かつて戦争の加害者であり、多くの災禍をもたらした国家が、非暴力の誓いをするということは、その誓いを立てる国家自身の利益を守るだけでなく、その周辺国家への安全を保証するものでもある。共存共栄とはまさにこのようなことを言うのである。

防衛のための軍備を持つことは、「当たり前の国」にとって最低限必要なものだという、くだらない常識に訴える論調というのは、この際まったく意味をなさない。非暴力だけが、最終的に暴力に勝り、世界を安全な場所にしうる唯一の理念であり、思想と呼ばれるに値する概念であって、本来われわれを支配するべき唯一のである。こうした理想だけが、すべての現実主義や打算主義を越えて、本来おおやけに誇って恥ずることなく口にすることのできる言葉なのである。

そして戦争を防止し、周辺国へ暴力の流出を防ぐという意味だけでなく、何よりも、非暴力だけが「民主国家」を本来の民主主義国たらしめる唯一無二の方法であるからだ。

「非暴力が民主主義の根幹である」という、考えてみれば「当たり前のこと」は、ガンディーの『わたしの非暴力』(みすず書房)に詳しい。


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