衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

芸術音楽って何?(もとい、芸術って何)

August 17, 2004
 
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何度もこれについては手を変え品を変え語っているが、分からぬ方々はいつまでも幻想的な言辞を繰り返している。恐らく無自覚に。あるいは、時代を通底した普遍芸術についておそらく想いを巡らすこともなく。それを考えたことがあれば、そのようなことを容易に口にできるはずもないのだ。もし自覚的に(戦略的に)言っているのであれば、それは、芸術や文化の「向上」にはまったく寄与しないばかりか、芸術*そのものの俗化、ひいては荒廃を招くだけだ。人を戦略的にコントロールしているつもりで、実はもっとも騙しているのは自分自身なのである。

* 芸術という言葉を「アート」とか「art」とか言い換えても、何ら新しいことを付け加えることにならない。私の主張はここで言う「芸術」を「アート」と言い換えたり、「芸術家」を「アーティスト」と読み替えても、まったく同じように繰り返すことができる。

ひょっとしたらこうした「芸術性」を自画自賛するご当人達は、ポップスのような「大衆芸能でない」という理由だけで、「非ポップスの音楽」を、あるいは単に「マイナーな音楽」を「芸術音楽」であると漠然と思っているのかもしれない。しかしもしそうだとすれば、何と度し難く浅薄な芸術理解であろう。それは、同時に大衆芸能に対して不当な過小評価をしているだけでなく、「なになにでない」などという消極的な定義を以て、「芸術」として祭り上げられてしまうその「立派な作品」自体の適正な評価を不可能にするものである。そして、なによりも大衆芸能の中にあり得る普遍的な芸術的価値を不当に無視する態度である。傲慢さはその無自覚さの中に潜む。

繰り返そう。われわれは「芸術を目指す」ことはできても、「自分たちが芸術家である」とも、「自分たちによって作られたものが芸術である」とも、言うことはできない*し、言う必要もない。これは、芸術というものの存在や存在意義を否定しているのではなくて、それに関わろうとする者が、「芸術」を自称することに意味がないとだけ言っているのである。この論は、「芸術らしきもの」をわれわれが目指し、真摯に創作努力することを放棄するものでも断じてない。しかし、われわれはそれを目指せても、目指しているわれわれが「芸術である」と宣言することには意味がない。

* いや、百歩譲ってそのように言うことはできるし、語る言論の自由もあるが、本論のような反論を受けるだけの話である。

自分が真の信仰者であるかどうかを本人が言い切ることができないのと同じ意味でである。一体どんな信仰者が、「自分こそが真の信仰者である」と他人に胸を張って言い切れるのであろう? クリスチャンの両親から生まれたり、教会へ通うだけの人間がクリスチャンであるとは言い切れないのは、良識ある人には理解可能なことだ。どんなひとも「真のクリスチャンである」ことを目指すことができるだけなのだ。同様に、われわれは「疑いなく自分が芸術家である」などと言うのを恥ずべき事としなければならない。

われわれの多くは、「芸術であるとしか言いようのないもの」を便宜的に(あるいは社会通念的に)「芸術」と呼んできたのであって、たとえばある人物の作りだす音楽が(無条件的に)芸術音楽であるとは全く言いきれないし、それに関わるものに自分が携わっているという理由だけで自分の音楽作品を「芸術である」と言い切るのも、まったく傲慢でしかない。われわれは、ひとつひとつの作品を前にして、それが芸術的であるかどうかの謙虚な検討が、個別に可能であるに過ぎず、ある人物が作りだしたものがすべて芸術であるかのような言説は、芸術の本質性を却って損なう種類の俗物による定義に過ぎない。それは、定義を下す者にとっての「芸術」の産業化に必要なだけの、見え見えの、そして恥ずべきレトリックなのである。

一方、芸術は、いわば「天上界に属するような歴史的人物」によってのみ作られてきた特別なものだと主張したいわけでもない。芸術的なるものを、われわれ俗人達から隔離・保存したいわけでも全くない。むしろまったく逆である。

芸術家は、われわれの間にいくらでもいる。そして、そうと気付かれずにひとの目の触れるところになにげなく配置してある普遍芸術というものも、そこここにある。そしてそれらは売れているアーティストによってだけでなく、無名の職人によって受け継がれた作法や民俗伝承の繰り返される動作の中にも、そして街の落書きの中にもある。しかし、彼らは自分のやっていることに無自覚であるべきだし、芸術的であると思い込む必要もない。彼らには自分の創作への純粋な衝動と行為があるだけなのだ。

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そして、もっと言えば、「“文化”としての芸術の維持」だとか「真の芸術の再興」とか呼ばれるご立派な集合的・全体的な目標設定やら、「公共のための芸術」などというものにも、われわれは疑いの目を向けなければならない。実態の不明確な「公共」への貢献とか、「国」や「民族」の持つ「独自の文化の推進」などというスローガンにも疑義の声を挙げる必要がある。

いわゆる恵まれた先進“文化”国家や一部の自治体による「文化活動の振興」を羨む声は、その点で貧困とされる日本国内の創作家たちのあいだからは、よく聞かれることだ。しかも理解できないことではないし、同情すべき事だ。しかし、「公共」が口出しをするような「文化活動の振興」という、創作家にとって一見美味しい話も、たとえば全体主義的な国による監督や世間知らずな官僚による忌むべき価値判断と抱き合わせのセットになる可能性が避けられない。創作への集合的動機を鼓舞する芸術家らは、こうした可能性を省みる必要がある。

自分が、何らかの創作分野(様式)にコミットしており、それが資金不足や国による資金提供の欠如のために維持したり作品化できないという「悪名高き」現実があるとする。それは確かに「残念」なことだ。だが、ある個人にとって重要な「特定の様式」を持った創作活動を維持することが優先され、その維持のためにそうした全体主義と手を組むなら、それは結局のところ、自分の創作への原初の動機を諦め、機会と引き替えに自分の精神を権力者に売る行為に過ぎない。そうなれば、なんのための(特定の)様式の選択だったのかも、自己の創作衝動の解放だったのかも、分からなくなる。

本当に「ある特定の様式」の選択とは、創作動機に先立って目的化されるべきものなのだろうか? 私には分からない。「様式」の前に、表現されなければならない内容、あるいは衝動がまずあるのが本当ではないのか。その「様式」の維持のために、国家や特定の利権集団とわれわれは交渉すべきなのか? そうした「交渉」によって、失われるものはないのだろうか? 私は、集合的な創作へのインセンティブの正しさを容易に信じない。

そして、(話は戻るが)自分の関わる創作領域を「芸術」である、とためらわずに語る人物やその動機を信じない。もちろん、未来の歴史家も無条件には信じないが、そんな結果判断は未来に任せておけば良いではないか。

(これは、断っておけば創作をしている人物の創作物そのものの価値を疑うとかいう論理ではない。また、自分が共感しうる具体的作品の完成実現に対して協力できないとか言っている論理でもない。むしろ逆なのである。)


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