衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

あらためて、「宗教は阿片」なのか
ヨーゼフ・ロートを語る[2]

October 21, 2004
 
English version
  

>> (前略)宮殿へ通ずる門の一つの前には聖母像が置かれていたが、彼らはその像の上に、「宗教は民衆にとって阿片である」という、彼らの予言者oの文を書き出したのだった。何という一文であろうか。流行歌のように、人々の耳に甘く融け込む不思議な力を持ったあらゆる文例に漏れず、これまた馬鹿げた文章だ。(中略)これまたとても金言とは言えぬ代物である。低俗な流行歌がどれも音楽上の意味を変えることなく後から前へと歌うことが出来るように、この文も逆にしようとすれば逆にもなる。この文章においては、言葉はそれ本来の意味ではなく、応用的意味を持っている。(中略)その文の意味を逆にすることだって出来るのだ。そうすれば、軽薄な耳には流行歌同様、甘く響くだろう。たとえば、こうも言うことが出来る。「不信心は民衆にとって阿片である1」とか、あるいは「阿片は金持ちにとって宗教である2」とか、また、「金持ちは宗教にとって阿片である3」とか、さらに権力者たち、それも宗教ではなく、「その時々の権力者たちこそ、民衆にとって阿片である4」とか、随意に言い換えることができるだろう。これは哲学者の言葉であろうか、いやけっしてそうではない。それはある代議士の言った流行言葉に過ぎないのだ。<< (『反キリスト者』pages 144-145)

O おそらくマルクス自身のこと。
1 「信仰心を捨て去ることが、中毒的であり得る」ということ。
2 「金で買える人にとっては阿片の体験は宗教的であり得る」ということ。
3 「人間の組織としての宗教団体にとって、金持ちの存在は、組織存続のための甘い汁である」ということ。
4 「言葉巧みに騙し誘惑する権力者の甘い約束や大言壮語は、民衆にとって阿片である」ということ。

これだけ読んだだけでも、東方ユダヤ出身のジャーナリストだったヨーゼフ・ロートの宗教に対する幾つかの態度が鮮明になる。そして宗教の持つあらゆる負の側面に対する理解の深さも。だが、ロートは、キリスト教の教会で聖母像を眺めた。そして、その時はやり始めたキャンペーンを目撃する。彼は、迫害のユダヤ人でありながら、キリスト教の信仰者に対する敬意を払うことを厭わないばかりでなく、宗教そのものを「相対化する」マルクス主義の政治的実行者たちのキャンペーンに対して鋭い批判の矛を向ける。

これは、『反キリスト者』という中編エッセイのごく一部からの引用に過ぎない。社会主義だけが文明の破壊者であるということではないし、そのようなことを一面的に論じようということでもない。彼は、“キリスト教”社会の中に反キリスト者が紛れ込んでいるという暗喩を用いて、その者たちが、文化や文明の破壊者として、あらゆる手管を弄していることを、ジャーナリズム、映像産業、社会主義の矛盾といった様々な社会の層における反宗教のムーヴメントを分かりやすいが暗示に満ちた言葉で論じる。

さて、われわれの生きる社会においても、「宗教が争いの元になっている」という主張は、いくらでも見つけることが出来る。しかし、宗教が争いの元になっているという理由で、その宗教の存在意義を全否定できるというロジックが成り立つのであれば、われわれは人類の経済活動や政治思想も同じ理由で否定する勇気を持たなければ公平ではない。もちろん金融や金利という制度も同時に。金融のシステムというものが、一体どれだけ文化や環境や生活の破壊に手を貸したであろうか。しかし、どんな銀行家や財界人が自ら武器を手にとって、恵まれない人々や国境線の向こうにいる異民族から返しようのない借金を取り立てるような「野蛮」な活動に手を染めたというのか? 彼らは必要に応じて政治家を操り、軍隊を組織して、彼らの貸した財産を倍にして奪い返すのだ。そして、そこには「開発」や「宗教的な狂信者・破壊活動家の巣窟を一掃する」というほとんど宗教的な大義名分が大いに活用される。キリスト教よりイスラム教より、「金利という名の絶対宗教を相対化する」ことで、得られる平和の方がはるかに大きいのではないか? そして、晴れてそのような争いがなくなれば、人々は自分の大切だと思うものを信じて生きていくことが出来るのではないか。

何度でも確認しようではないか。およそ戦争と呼ばれるものに経済的理由を持たないケースというものがあるだろうか? 経済、すなわち「生き残ること」を至上とする論理で肯定してきた戦争というものは、そもそも人々の信仰を、政治的成果を最大限引き出すための手段として利用してきたに過ぎない。

特定の神への信仰者たちや、自民族の優先的生存を無条件に肯定する人々の「教義」が、真に宗教的でありえようか? あるいは他民族の殺害をそそのかす「教義」が、宗教の本質的目標であろうか? それは政治化された、人間の組織としての宗教団体や政治家や煽動者の仕事であって、宗教教義の伝えようとした核心部分ではない。

戦争をより悲惨なものとした科学の知識が争いそのものの原因や本質でないのと同様に、宗教の本質は、争いの元とは本来縁のないものである。宗教は争いを回避するための知恵を含むものである。敢えて言うなら、宗教の持つ落とし穴は、あらゆる(共産主義やマルクス主義も含む)思想の持つ教条主義の落とし穴と同様のものである。それは科学的思考法を人間が完全に獲得でき、しかも唯一至上のものであると信じて疑わないのと同じ種類の硬直した思考であり、宗教教義に対する無批判な依存(狂信)と根を同じくするものである。

「宗教に落とし穴がない」などとは不遜にも主張すまい。しかし、われわれがそうした宗教に対する曲解や早合点を避けるほどに賢明であるならば、宗教が人の愚かさに起源を持つものでは断じてなく、むしろ科学的探求や経済活動や政治思想と等しく、人の善なる本性に期待する、幸せのための一手段であったことに気付くはずである。

もし、「宗教という手段」に起因するかに見える、あらゆる不幸にわれわれが見舞われているのだとすれば、その方法や手段自体より、その「道具」を利用しようとする人間そのものの本性(humanity)にこそ、原因を見出す慎重さと忍耐をこそ獲得すべきなのである。

宗教を敵視して信仰者自身に「信仰を捨て去れ」と命じるよりも、宗教の何がそれほどまでに有効なのかを近づいて観察し、「理解する」ことに努力を払う方が、はるかに平和的であるのと同時に「生産的」でさえある。単に否定して済ませられると信じるならば、それは一つの宗教がもう一つの宗教を全否定する態度と大差がない。お手軽な否定が「科学的な幸福へのアプローチ」であると主張し、また自分の生活の中で実践するのは勝手だが、その方法で彼らに接近する者を、信仰者は容易に排除するであろう。

今日、宗教の「教義」として伝えられているものは、数千年の歴史を経て培われてきた人類の智の宝庫である。処世訓のような世俗的なものから人間の度し難い性向、そして意志の弱さなどを含むあらゆる人間の心性に対する深い洞察なしには獲得できなかったものだ。それを「争いの根元」と早合点して否定して済ませようというのは、「赤ん坊を洗った桶の汚水を捨てる際に、水を赤ん坊ごと河に流してしまうようなもの」なのである。

教義の中で科学的な証明に堪えない部分まですべて字義通り信じる必要はない(ただし、現代人にとって一見笑止千万に見える“非科学的”記述さえ、無意味であることはない。それらは必ず解き明かしうる重要な何かを伝えているのである)。それを字義通り信じるのが教条主義と言われるものだ。だが、自分の人生の数十年の経験や知識が、教義の知恵に対してきちんとした精査を怠って容易に克服できると考えるのも、科学的思考への過信だけがなせる技なのである。

われわれが、ロートの獲得し得た「宗教」を越える宗教的信仰と、他者への愛(compassion)を追求しても、なんら失うものはないのである。


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