>> (前略)宮殿へ通ずる門の一つの前には聖母像が置かれていたが、彼らはその像の上に、「宗教は民衆にとって阿片である」という、彼らの予言者oの文を書き出したのだった。何という一文であろうか。流行歌のように、人々の耳に甘く融け込む不思議な力を持ったあらゆる文例に漏れず、これまた馬鹿げた文章だ。(中略)これまたとても金言とは言えぬ代物である。低俗な流行歌がどれも音楽上の意味を変えることなく後から前へと歌うことが出来るように、この文も逆にしようとすれば逆にもなる。この文章においては、言葉はそれ本来の意味ではなく、応用的意味を持っている。(中略)その文の意味を逆にすることだって出来るのだ。そうすれば、軽薄な耳には流行歌同様、甘く響くだろう。たとえば、こうも言うことが出来る。「不信心は民衆にとって阿片である1」とか、あるいは「阿片は金持ちにとって宗教である2」とか、また、「金持ちは宗教にとって阿片である3」とか、さらに権力者たち、それも宗教ではなく、「その時々の権力者たちこそ、民衆にとって阿片である4」とか、随意に言い換えることができるだろう。これは哲学者の言葉であろうか、いやけっしてそうではない。それはある代議士の言った流行言葉に過ぎないのだ。<< (『反キリスト者』pages 144-145)
これだけ読んだだけでも、東方ユダヤ出身のジャーナリストだったヨーゼフ・ロートの宗教に対する幾つかの態度が鮮明になる。そして宗教の持つあらゆる負の側面に対する理解の深さも。だが、ロートは、キリスト教の教会で聖母像を眺めた。そして、その時はやり始めたキャンペーンを目撃する。彼は、迫害のユダヤ人でありながら、キリスト教の信仰者に対する敬意を払うことを厭わないばかりでなく、宗教そのものを「相対化する」マルクス主義の政治的実行者たちのキャンペーンに対して鋭い批判の矛を向ける。 ■ さて、われわれの生きる社会においても、「宗教が争いの元になっている」という主張は、いくらでも見つけることが出来る。しかし、宗教が争いの元になっているという理由で、その宗教の存在意義を全否定できるというロジックが成り立つのであれば、われわれは人類の経済活動や政治思想も同じ理由で否定する勇気を持たなければ公平ではない。もちろん金融や金利という制度も同時に。金融のシステムというものが、一体どれだけ文化や環境や生活の破壊に手を貸したであろうか。しかし、どんな銀行家や財界人が自ら武器を手にとって、恵まれない人々や国境線の向こうにいる異民族から返しようのない借金を取り立てるような「野蛮」な活動に手を染めたというのか?
彼らは必要に応じて政治家を操り、軍隊を組織して、彼らの貸した財産を倍にして奪い返すのだ。そして、そこには「開発」や「宗教的な狂信者・破壊活動家の巣窟を一掃する」というほとんど宗教的な大義名分が大いに活用される。キリスト教よりイスラム教より、「金利という名の絶対宗教を相対化する」ことで、得られる平和の方がはるかに大きいのではないか?
そして、晴れてそのような争いがなくなれば、人々は自分の大切だと思うものを信じて生きていくことが出来るのではないか。
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