衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

『無痛文明論』批判
「無痛」生活をしているヒマ人の書いたオメデタ似非文明論

September 29, 2004
 
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『無痛文明論』森岡正博(トランスビュー)批判:

たったひとつの本が、これほど過敏な反応と、ほとんど敵意に近い感情を私の中に引き起こしたのは、久しぶりである。しかし、ちょうど10年ほど前に似たような感情をひとつの本に対して抱いたことがある。だが、その時は大したことを書かずに終わった。なぜなら、それは「反論や克服を試みるほど知的に手強い論理」であったというよりは、単にレベルの低い文章に対して、きちんとその内容に対する反論さえする気が萎えるほど、下らなかったというのがある。もっともそれは、実に低俗な「ルポ」と称した文学の一種に関してだったが。今回もそれに似た印象を持ったのだが、『○○○○論』とあたかも学問的体裁を施していることもあり、「下らない」とだけ言って看過するにはあまりに重大に思えたのだ。

森岡正博の『無痛文明論』は、結論的にも着想的にも全然意外性のない、極めてありきたりな文章の寄せ集めである。それは(著者本人の認めているような)平易な文体から受ける単なる「印象」によるもの、ではない。私には、筆者が本書を書いた動機が、今日の社会の現状を否定的に総括したいという欲望、いやそれ以上に「こんな社会はひっくり返ったって構わない」という、決して声高に語られざる彼自身の期待を満たすものでしかないように思える。

確かにある種の文明批判であることに違いはない。怨恨に満ちた文明批判である。私も多くの文明批判の書や近代主義に対する反対の言説を読んできたし、自身発言をしてきた。しかし、私はそれぞれの問題を、文明全体の問題(=全体的な解決のみが可能)ということにすり替えない。個々に取り組むべき問題ならあると言うだろう。森岡正博の“文明論”は、そうしたものとも、いわゆる「メタな視点」から見た文明論とも、性格の異なるものである。

【私怨のためのレッテル貼り】

現代人の無痛感覚による問題を社会の諸相から見つけ出し、それらに対して、その起源をある特定のひとつの原因に求める。そして諸現象の起源に「レッテル貼り」(言葉の定義)をし、すべてはそのせいであるとする。決定的なことは、この著者は、それで何かを語った気になっている点である。明らかに、「視点」や「立場」というものが感じられるが、そこには踏み込んだ哲学(思索)がない。つまり、生産的な文明論ではないのだ。生産的でなくて良いというなら、それは過度に装飾されたものであるにせよ、単なる愚痴を超えるものではない。

以前なら「安全が優先される社会」とか「温室栽培のような文明人の養育」、もっと悪く言えば「家畜化された人類」とでも言えば、われわれはその話者が世界のいかなる相を切り開いて語っているのか、おおよそのところに見当が付いたものだし、それでコミュニケーション上の便宜としては十分であったわけだ。だが、本書ではそういうありきたりな言い方を嫌う。むしろ現代文明のあらゆる局面が、筆者が提唱する「無痛文明」であるから、という単純化された言説に落とし込もうとする。その「無痛文明」なる捉え方の有効性に、あたかも「すばらしい天啓」を受けたかのように。

【ネガイメージに直結するレッテル】

しかし、われわれがもうすでに嫌と言うほどに自覚している「現状の世界の問題」を、この筆者は、その言葉で語り尽くすことができる事実こそが、最重要であるかのように、その表現を使って延々と分かり切ったことを語り続けていくのである。しかし、どこまで行ってもその新しい用語は、「広告コピー」のようなものでしかない。すなわち、実際は大きくて複雑な概念を一刀両断に言い表すことができ、しかも覚えやすく、どのようなことを言っているのかという議論の前提を共有するのに、一見便利な言葉である、という意味だけで。だが、そうした「成功したコピー」は、人に深い印象を与えることはできても、不要な用語を増やすことに貢献しても、なんらの新しい知恵の提供にもならないのである。

この本を最後まで通読した読者が、一体、読む前と比べて賢くなったと実感できるだろうか?

この本の著者は、書いている多くのことが「悪いことである」かの印象を与えるやり方をためらわない。そもそも「無痛文明」という言い方自体が、「本来は痛みを感じるべきなのに、その当然の支払いをしていない」という非難のトーンを含んでいる。彼が、否定的に評価する文明のいくつかの側面に関して、すくなくとも私にとって悪いことであるとは考えられないものも多々あった。「それはむしろ文明のよいところだし、それこそが文明の目指した本質でしょ」という風に反論したくなるのである。とくに「無痛文明における愛」で記述されているような「愛」のあり方というのが、否定的に論じられるようなことであるとは、私には思えない。単なる修辞上のテクニックの披露とは感じられても、何か新しいことを論証しているようには思えないのだ。

それは例えば30代前半という極めて狭い世代の、たとえばサラリーマンという人のグループを抜き出して、「○○類」「××種」と名前を付けて、「そのような種族が自分の職場にいないか?いるだろう。(迷惑だとは思わないか?)いたら、かくの如き対処せよ」と面白おかしく書きたてる、程度の低い週刊誌の記事のようでもある。もちろん、週刊誌の記事よりは、やや「格調の高い」文体ではあるが、人に「このままじゃヤバイ、どうにかしなきゃ、俺達の住んでいるところはヤバイんだぜ」と浮き足立たせるには十分なほどに挑発的だが、解決策や議論を提示できない点で、やはり週刊誌の役割を超えることはないのである。実際、彼は雑誌記事としてこれを脱稿したらしいが、分厚い「単行本」に体裁を変えても、その週刊誌的本質は変わらないのである。

このように、社会の現状を指して総括的に「一言で」まとめあげるというやり方は、人の目を容易に惹き付け得る。だが、ちょうど10年ほど前に流行った「留学女性はイエローキャブ」で言い表されたような、いわゆる「世相批判」の体裁を採った、特定の種類の人間への愚痴や誹謗以上の何物でもない「中傷ルポ」の持つ論法に、共通して見出される傾向なのである。その「世相」が万が一事実だとしても、それはそのような「世相」から、われわれ現代人を抜け出させる、いかなる知恵も思想的なブレイクスルーも決して提供しないのである。むしろ、人と人の分断を図り、それを固定されるものである。本書に関しては、こうした「中傷ルポ」とは種類の異なるものである。しかし、類似の「精神的な根」を感じるのである。

【議論の端緒を「根こそぎ」にする独断】

そうした世相や「人種」への「レッテル貼り」の危険性というのは、ある種の批判、たとえば「本書にあるような批評は現状を一面的ないし皮相的にしか捉えていないし、別の角度から見れば悪いこととばかりは限らない」というような反論を容易に無効化する。つまりこういうやりかたで。「あなたがこの文明を悪いことだと思わないのは、まさしくあなた自身がその無痛文明の中で無痛主義者になってしまっているからに他ならないんだよ」である。

こうした論理を有効と認めたら、「あなたが共産主義(の思想)を悪いことだと思わないのは、他ならぬあなたが共産主義者だからだよ」という事にもなりかねない。あるひとつのものが、アタマの先から足の先まで「悪である」などと言うことがあり得るだろうか? 宗教だって科学だってすべてそうだ。ひとりの原理主義者の乱暴な行いで、その思想全体を否定して済ませられるだろうか? それほど左様に簡単なものであれば、われわれに学問は必要でないのだ。

「あなた自身がそれは○○教の信者であるからそのドグマのおかしさが分からないのだ」と言うだけでは生産的な議論にならない。どういう立場からそれがおかしく、「おかしくない自分の立場」というものがいかなるものであり、またいかなる理由によってそれが正当であるか、のきちんとした説明や批判精神を一切飛ばしてしまうのである。しかし、実は、他人に対して「おまえ(たち)はおかしい」「おまえ(たち)の属している世界は間違っている」と主張する人間にこそ、その理由をきちんと説明する責があるのである。

【一体、誰の話か?】

話を戻せば、「レッテル貼り」をして何かを語った気になっているのは、単なる愚痴以上の何物でもないのであり、読むに値しない。しかし、それだけで済まされるものでない。この手の本に潜在している真の危険性について語らないで済ませるわけに行かないのである。

彼は序文の中で、「快にまみれた不安のなかで、よろこびを見失った反復のなかで、どこまで行っても出口のない迷路のなかで、それでもなお人生を悔いなく生き切りたいとと心のどこかで思っている人々に、...」と書いている。だが、そもそもわれわれは、本当に「快にまみれた不安のなか」にいるのか? 私の毎日は、「快にまみれ」てはいない。どこかの大学の教授ならともかく、世の中自体はそんな「快にまみれ」たところではない。毎日が闘いで、どうやって生き残るかをしのぎを削って生きているのだ。その合間合間に「快」と呼べるような刹那があるだけである。(それをときおり味わったとしてしてそのなにが悪いというのだろう。)

「よろこびを見失った反復」というが、一体どんな人がそういう生き方をしているというのか。それは別に社会問題ではなくて、その人個人の問題なのである。もしそれを「社会がこうだから、あるいは文明がこうだから、よろこびを見失った」と言い切れるのであれば、次のような反駁されても不思議はない。この世界にはまだまだ歓びを見出す生き方も手段もある。そして世界にはいくらでも貧困や危険がある。刺激や生き甲斐が欲しければ、退屈している本人がそういうところに赴けばいくらでも生き甲斐を見出すことは出来よう。いくらでも「反復もなければ、不安だらけ、よろこびを見出すのが難しい世界」があるのがわかるだろう。自分の属する世界が気に入らなければ、自分で幾らでも変えてみせるか、それでも足りなければ刺激を求めてどこかに赴けばいいのである。

【全体(主義)的解決に期待する危険性】

本書の本当の危険は、しかしそんなところではない。この本はせっかく獲得した社会の安全を反古にして、世の中を危険な場所にしても構わないと思っている一部の権力者に、ひとつの正当な口実を与える可能性があるのである。その点が私の憂慮する最大の問題なのである。

「身体の欲望を転轍することによって、生命のよろこびに適うものにするなどの活動を勧める」などというあたりは、おそらく青少年のヴォランティア活動ならまだしも、ひいては「軍隊」への勧誘や「徴兵制」などの正当化の時に、喜んで引っ張られてきそうな論である。一体、この子供にさえも読みやすい「噛んで含める」ようなトーンで書かれた本を、どんな「意図」で執筆したのか、森岡正博の頭の中を覗いてみたいものである。

最後に、読んでみようと思った人にはアマゾンで紹介されていた読者によるレビューを2つ引用して、終わる。これは控え目ではあるが、本質を突いた評と言えるだろう。

>> 大部,でもやや冗漫か
現代文明が「無痛文明」への道である点はagree.ただし,10分の1で書き尽くせる内容です.著者は集大成として書いたようなので思いを充分尽くしたのでしょうが,この紙幅がなければ理解できない人には「無痛文明」との戦いは荷が重いでしょう.それはこの内容が頭で理解するものではなく,心で体感(言葉ヘンですが)すべき内容なので,わかる人にはわかっていることだからです.10分の1に凝縮してあったら一生宝物となった本です.が,多分もう読みません.また個人の心のレベルの問題のように書いてありますが,人類レベルの問題であり,これだけの枚数で論じられるのであれば,歴史的・地理的・経済的・政治的な視点での分析・問題提起がなされるべきだったと思います.軽いノリの宗教本,あるいはハウツー本のように読まれるのでは?そうであると残念.
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>> ミイラとりがミイラになる(反面教師)
かつて養老先生に「理論は操作出来るが生のデーター入力が足りない」と諭されてたけど 「身体の欲望」と「生命の喜び」と言う判りやすいキャッチコピーとは裏腹に本作でも「脳内」における抽象的な理論の操作に終始し、エゴイズムとオブセッションを経て最後はシャブ中がシャブ中である事を正当化するような自己欺瞞に行き着く。 時間とお金をドブに捨てたい人にだけ強くお勧めし致します。
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