衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

『夜を賭けて』を観る

August 12, 2004
 
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監督:金守珍(キム・スジン)、原作:梁石日(ヤン・ソギル)、プロデューサー:郭充良(カク・ジュンリャン)、音楽:朴保(パク・ポウ)。制作に関わる四大支柱が全員在日二世。調べたら、なんと、ロケ地は韓国だったのだ。特定の人々のあいだかも知れないが、なるほど話題になっただけのことはある映画だと、見て思った。見ようと思ったきっかけは、やはり朴保つながりである。

http://www.artone.co.jp/yorukake/staff.html

まず冒頭、在日朝鮮人の主人公達の住む集落が描かれ始めて、あっと思ったのは、その場所が、黒澤明の「どですかでん」の舞台(ロケ?)と驚くほどそっくりだったことだ。そして、家屋の中の生活のシーンになると、「どん底」を連想した。当たり前だと叱咤されるかも知れない。貧困な想像力かも知れないが、自分はこういう場所に親しんでいないので、こういう映画から知る以外にない。両監督が描こうとした舞台の共通性が、今後の自分のいろいろな考察に何らかのヒントを与えそうな感じなのだ。

実際、非差別部落に限らず、戦後の日本にはバラック造りの似たような“集落”が、全国あちこちにあったのだろう。しかし、『夜を賭けて』における“鉄屑回収業”を生業とする在日朝鮮人達は、まるでゲットーのように狭い地域に押し込められる形で、非常に劣悪で過密な居住環境での暮らしに甘んじざるを得なかったわけだ。しかも、ことによると、多くのこうした人々が、戦中戦後を通じ、一貫してそうした場所に押し込められていたのである。(私は原作を読んでいないのですべてが憶測になってしまう。)いずれにしても、ひととだけ確実に言えることは、彼らは進んで、日本におけるマイノリティであろうとしたわけではないということだ。日本の不道徳極まりない政策と、そのご都合主義的で、一貫しない政策の変更によって発生した非差別民(被害者)だったわけである。

だが、映画で描かれる在日朝鮮人たちは、被害者の地位で収まらない。彼らは、生活のために闘う非差別民なのである。そして、彼らを演じる俳優達の顔が実に良い。山本太郎演じる、主人公の金義夫と彼に敵対する幾人すらも、皆、性格や人格を持った個人史を刻んだ、味のある顔をしている。そうした描き方が実に気持ちいいのだ。

最後に主人公達と警察との壮絶なバトルとなる。排除しようとする警察と、おとなしく排除されるがママにならない彼らとの間には、闘争が起こる。しかし、これはあらゆる国家がマイノリティに対して振るってきた権力による暴力、強制撤去・強制排除の焼き直しなのであり、そうした国家権力による暴力が在日朝鮮人に対して振るわれた、あくまでも国内バージョンなのである。

それは、現在でも日本のODAなどの資本投下によって“活性化”され押し進められる開発のために、アジアにおいていまだに発生しつつある少数民族の強制排除(たとえば、フィリピン国内でつい先頃まで起きていたことなど、『教えられなかった戦争〜第二の侵略』に詳しい)や、またつい数年前に香港の“無法地帯”九龍城砦で行われた、中国政府による「制圧」など、そうした一連の暴力の行使を連想させるものである。

原作ではもっと説明があるのかも知れないが、映画から見る限りでは、奥田瑛二の演じる「刑事」の役どころの意味が、私にはよく理解できなかった。もう一度見れば何か分かるのかもしれないが。想像するに、「悪者の中でも良心的な人物」という所を描きたかったのかも知れないが、強制排除を実行する制服を着た警察官より「偉い」監督が、「悪者の中でもマシな方」であるはずがない。無実の罪で逮捕された金義夫を留置所から出したのは、彼の良心によるのかもしれないが、より大きな国家の大義を実現させる片棒を担いでいる以上、その在り方がかっこの良いものではあり得ないのだ。ちょっと考えてみれば分かることだ。奥田は、おそらく、唐十郎つながりで今回の映画に関わった。しかし、彼をきちんと収めるのに相応しい役どころが見あたらない。差し当たって、非差別民の側ではない。だったら日本の強制排除する側の「誰か」である必要があるわけだが、さりとて悪役として奥田を起用したくない。あるいは本人の希望もあって。そのあたりで、こうした中途半端な役回りとなったのではないか。これは私の憶測だ。その点、完全な不良、救いがたい悪役、としての「不良化した朝鮮人」を演じきった山田純大は天晴れであった。

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