衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

「大きな羊」としてのアメリカ

2005-09-27
 
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日本ではアメリカのことを「米国」と表記することがあるが、中国においては「美国」である。それを滞米中、中華街などを行き来している内に知ったのだが、そのときの驚きは正直言って大きかった。中国から渡米して一旗揚げようとした初期中国人移民が、憧れの国を「美国」と呼ぼうとした、ということなら分からないでもない。が、まるでKatharine Lee Batesの愛国歌「America the beautiful」を地で行った感じでさえあり、かの国がそのように呼ばれていることに一種のアイロニーとそれに重なる不思議を見出すのである。

アメリカ合州国という国が、その建国の由来/原点からして、俗の権化であると同時に極めて宗教的な様相を呈していることは、いまさら敢えて断るまでもないことだろう。しかし、この「新大陸」へ1620年にメイフラワー号で入植をした最初の一群が(「巡礼の始祖たち」とでも訳すべきか)伝統的に「Pilgrim Fathers」と呼ばれることも広く知られている。つまり「新大陸」とも「新世界」とも呼ばれる「かの地」への渡航(ということは、初めての渡航)でありながら、その地への入植者たちがこのように聖地への「巡礼者」のように呼ばれている不合理に対する本当の理由に関して、納得できる説明になかなかお目に掛かることはない。だが、それは彼らにとってさえ、この約束の地が「初めての土地ではない」ことを、かなりあからさまに「暗示」しているようにも聞こえるのである。

もちろん、「新しい聖地を作る」入植者たちの意気込みや後世の人々による口承を通 じて行われた伝説化を単に反映したものでしかないという説明で納得される方は、それ以上の問いと答えのプロセスを経由することはないだろう。仮に百歩譲ってそれが「新しい聖地の建設」を示唆する以上のものでないとしても、それでは「聖地」とはどのような場所がそのように呼ばれるに相応しいか、ということについても更なる考察の余地があることを忘れるわけにはいかない。

「荒野に呼ばわる声」の主たる洗礼者ヨハネは、イエスに対して「水によって」洗礼を与えた。しかもヨハネは「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬ がせてあげる値うちもない。このかたは、精霊と火とによってバプテスマ(洗礼)をお授けになるであろう」と言った(マタイによる福音書)。アメリカの「水による洗礼」は京都議定書を批准しない合州国によってこのまま行けばさらに進行する。また洗礼者ヨハネ*は「イエスの磔刑」に先立って人身御供となることに注目すべきである。彼はキリストの出現を予言し、水による洗礼をイエスに授けた後でヘロデ王によって「首を取られる」のである。

* 洗礼者ヨハネ(John the Baptist)は、別名St. John the Divineとも呼ばれる。合州国には世界最大規模の教会がある(ノートルダム寺院やサン・ピエトロ大聖堂をはるかに抜いてだんとつの最大規模)。ニューヨークのアムステルダム通 り沿いにあるSt. John the Divine Cathedral(聖ヨハネ教会大聖堂)こそが、それである。

一方、聖地とは「犠牲の地」の別名である*。聖地と呼ばれる場所で「血の流されなかった」場所はない。ある多量 の生命の生贄を伴う燔祭(holocaust)が行われた地所こそが、記憶の固定化によって「聖化」が完成されるのである。すなわちこの「新大陸」への巡礼者たちは「犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げ」る燔祭の地所に率先して嬉々として赴いたのである。そして、その地は2億の住人で満ちた。

* 「聖なる」を意味する「sacred」は「犠牲」を意味する「sacrifice」と同じ語幹を持つことは敢えて言うまでもなかろう。

「美国」の「美」という字には、「大きな羊」という意味があるということを聞いたことがある人は多いだろう。つまり、「美しい」もののモデル(祖型)として「大きな羊」のイメージというものが存在したのである。白川静氏の膨大なる漢字研究というのはつとに知られているものらしいが、その「美」という字の説明を改めて読んでみる。

<< 「美」の字形には確かめがたいところがあるが、金文の字形によると、それは立派な羊の形を記したもののように思われる。神への犠牲(いけにえ)としてえらばれた羊の姿に、人々は美の典型を見たのであろう。>>(白川静『漢字暦』より)

燔祭の伝統を持つ中国の人々の直感が、(おそらく)無意識のうちに犠牲(いけにえ)として神への供物として捧げられることの定まった人々の国の姿を、宗教大国、儀礼大国、秘教大国、「美国」の中に、視てとったのである。

正に「美」とは、「表」において疑いの余地のない肯定的意味を表出すると同時に、重大な揶揄をその「裏」では表現しているのである。




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