音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

構造と状況(議論の前提となる定義の提案)
January 23, 2001

前論:

近藤氏にしても筆者にしてもお互いの指摘や主張にまだ完全にすべて応え切れていない部分が多々ある。少なくとも私が提出した疑問について明確な返答を受け取っていないと考えている部分が私の方には依然としてあるし、近藤氏が指摘した私の「非論理性」に関しても今すぐに反論したい部分ではある。しかし、取り敢えずそれらは必ず再び議論するとして今回棚上げにし、その代わりに次のようなターム(用語)上の統一を図ることを提案したい。使用しているタームを定義もしくは限定していくことで、議論の大部分が不要になるかも知れない。なぜならば、彼もそう言っているように、われわれの考えていることがそうかけ離れているようには思えないからだ。

さてもうひとつ最初に断っておくと、本論の時点では、私が選んで使っている「」なしの構造、そしてフォームという2つの単語の間には、おそらく意味上の差異はほとんどない。そして、近藤氏の側でも明確な差異を現時点では込めていないと考える。この2つの単語を違う意味で使った方が良い状況になれば、改めて詳細な定義を提案したい。

 


本論:

近藤氏の記している文章の中で「構造」という繰り返し出てくる単語がある。その中の一部は、「構造」ではなくて「状況」あるいは「の状況」と置き換えると私には理解しやすいものになるように思えた。

たとえば彼の文章中の次のような場合がそうだ。

<< 短時間の非整合的なもの選択はありうる。それすらも全体から見れば重要な一部となるからだ。だが、長時間にわたる非整合の選択は、演奏者がその音楽構造を理解しながらとったアプローチと考えるよりも、音楽構造を把握しきれなかったと見るほうが自然のように思われる。>>

「... 演奏者がその音楽の状況を理解しながらとったアプローチと考えるよりも、音楽の状況を把握しきれなかったと見る方が自然のように思われる。」

私が「音楽の構造」というフレーズを聞いたときに主に連想するのは、たとえば即興においては、時間(横)軸上に形成される意味での、また場合によっては形成過程でも認識される可能性のある意味での<構造>であり、おもに音楽が終わったり、作曲が完成したあとに全体を見渡してみて分かる類のものである。私が即興が終わったあとに「全体としてどうだったのか良く思い出せない」と時として言っている意味での構造がそれである。自分としては、その善悪はともかく、その瞬間瞬間の集中が高いほど1曲の時間軸上に沿って形成された構造がどうであったのか分からないことになる。面白いことにそういうものほど、あとから聴衆に「良かったね」とか評価されたりする。音楽全般に関して言うと、こうした「構造を感じさせるもの」は作曲されたり、ルールに則ったアドリブ(即興の一種)などをしない限り原則として生起できないものであるにも拘わらずである。

そのような意味での構造をあらかじめ決めていない自由型即興の演奏中に演奏者が認識できることは、瞬間瞬間に於ける「状況」でしかなく、縦軸の音要素は「構造」と敢えて呼ぶにふさわしくないものであるように思う。即興中に「状況」が把握できて始めて目指せるのが「構造化されたように聞こえる音楽」であるかもしれず、少なくとも、われわれが語っている文脈において、ある時間の一点から切り取ってきたその一瞬に「聞こえるすべての音要素(縦軸)」も「構造」であると呼んでしまうと、横軸上に形成されていく構造との明確な区別が付かなくなる。あえて「構造の断面」とは呼べるかも知れないが。であるから、(もっと適切な言葉が見つかるかも知れないものの)私ならそれをその瞬間の「状況」もしくは「音要素」あるいは「音集合」であると呼びたい。そうすると、偶然生じたことを含め、そこに生起しているすべての要素やそれらの組み合わせがその「状況」や「音要素」であることになり、それらを初めて語ることが出来る。縦軸の要素を「構造」であるとか「フォーム」であるとか呼ぶのは断じてふさわしくないと考える。

いずれにしても近藤氏の指す「構造」なる言葉が私の使う意味よりも広いものを指しているというのは正しいと思う。たとえば他の文脈で彼が使う「構造」の文例としては次のようなものがある。

<< 私は自分を聴取のエキスパートだとは思っていないが、私が音楽を聴くときの最大の楽しみは音の現象の構造化である事は確かだ。だからどれ程に優れた演奏行為がその音楽内で為されたとしても、構造が完全に予想できてしまうと非常に退屈になってしまう。 >>

正直言うと私の理解力が低いせいか、「音楽を聴くときの最大の楽しみは音の現象の構造化である」の意味が私にはよく分からない。ここで言うときの「現象の構造化」とは一体どういうことなのだろう。しかも近藤氏は敢えて「聴くときの」と条件を付けている。構造化というのは、録音されたものであれば、聴いているものが演奏されたときに演奏者(たち)によって行われたことであり、生演奏なら、演奏が行われているその瞬間に演奏者(たち)によって行われていることではないのか。作られた(あるいは作られつつある)対象に対して近藤氏が能動的に行う「構造化」とはどう言うこと指すんであろう。

おそらく間違っているが、憶測することはできる。たとえば、聴取者の立場に身を置いたときに私が「できる」と思っていることに「能動的聴取」というものは確かにある。あるいは私が「聴いているときも音楽に参加するんだ」という言い方で普段から表現しているものである。つまり聴く側の態度の問題だ。もしそのことを近藤氏が言っているのであれば、分かる気がする。ただ、それを「構造化」と呼ぶのは何ともね、という感じだ。

また、できあがった状況がすべて「構造」であるとか「フォーム」であるとか(確かにそれは一面そうなんだけど)呼び始めてしまうと、文章としての意味を失いがちになると思う。そもそもわれわれは「音楽のなかで意味として感じられる部分」の話をしていたのであって、「音楽の意味として認識できる部分」のひとつが、私は正に音楽構造なんだろうと思っていた。そういう意味で言うと、彼の前述の中の<< 音楽が始まって終わる物であるかぎり、確実にフォームは出来る。意図しようが意図すまいが、無視しようが無視すまいが、それは出来る。構造以外のところに重点を置いた演奏でも、フォームは出来るのだ。>> は、われわれにとって有意義と考えられる積極的な主張を成さない。

そうではなくて、「始まって終わりがあるものとして認識できるもの、すなわちフォームとして認識可能なものが音楽である。さて、そのような意味でのフォームは意図せずには期待することが出来ない」というのが正しい。だからこそ「意味として認識可能な音楽を、どうやって作ろうか」という話をしていたのだろう。意図せず、あるいは意識せずに生じた「構造(フォーム)」とは偶然である(そして「楽しい偶然」もあるにはある)。その偶然にしか生起しない傾向にある「構造」をどのようにより高い頻度で即興に於いて生起させるか、という話をしているのではないか? そんなわけで「フォームだ、構造だ」と積極的に言及している近藤氏の話を聞いていたら、「それなら作曲(プラン)すれば?」と言いたくなったわけだ。時間を掛けてプランされ、時間軸上に全体像として構築された音楽の構造が美的であろうことは、ある程度まで必然である*からである。しかし、音楽全般に対して構造的な美を「主たる課題」として追究しているかに聞こえた氏に対して、即興はその意味で近道とは感じられなかったし、ちょっと皮肉を込めて言ってみたわけである。もちろん理由がどうあれ、彼が即興に大いなる期待を抱いていることは知っているし、私自身も間違っているかも知れないが、当面「現実路線」でそれを追求しようとしているわけだ。

* もちろん即興されたとしか思えないようにきこえるモーツァルトの「作曲された楽曲」の多くが、正に即興されるように「書かれた」であろう事は、想像に難くない。しかし、それがモーツァルトにとって可能だったのは、予め歴史的に築き上げられた楽理なり彼独自のセオリーなり感受性なりがあったからで、それに乗っかって頭の中で(あるいは鍵盤に向かって)即興出来たからに他ならない。

偶然の要素が多すぎる集団即興の状況において、意味として感じられるフォームを、打ち合わせなしに、能動的につくりだすばかりでなく、(無作為に選択された?)参加者のすべてが、同時多発的に音を出す事が原則として許されている状況で、予想不可能でありながらしかも必然的に終わる、さらに結果として全員が同じ満足を得て...なんてことが可能なんだろうか。私は即興者としてというより、音楽をするものとして当たり前のことを懐疑しているだけなのだが、どうだろう?

いずれにしても、上で列挙された幾つかの「実現したいこと」をもう一度整理して考えてみる必要はありそうだ。


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