音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

すぐれた言葉
April 25 - May 2, 2001
 
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すぐれた音楽のプロダクションには優れた言葉の関与がある。いや、なければならない。こんな事を言えば、いつも私が主張していることと矛盾するのではと思う向きもあろう。たとえば、音楽は言葉で説明できないナニカを表現する全く別の媒介だ、云々といった辺りの主張だ。言っておけば、それは、正しい。しかし注意して欲しいのは、私はここで敢えて「すぐれた音楽のプロダクションに」と断っている点である。「すぐれた音楽に」ではない。すべてのすぐれた音楽に、必ずしも「優れた言葉の関与」があるかどうかは分からない。在る場合もあるだろう。でも、ない場合だって大いにあるだろう。言葉をしゃべったり、聞いたり読んだりすることの出来ないひとでも音楽を演奏したり作曲したりあるいは受け取ったりすることは可能だ(ろう)からである。

そして、逆説的ながら、まずこの拙論自体が優れた文章でさえなく、広い読者を想定した「分かりやすさ」を旨としたものでもなく、むしろ自分の書いているものの中でも、もっとも分かりにくいもののひとつに属するものとなるだろうという見通しもある。音楽のプロダクションという言葉には、単に優れた音楽を生み出す(だろう)人間を探しだし、そのひとのつくりだす音を捉えるために、必要な時間に、必要な場所へと、配置するというだけでない意味の含みを持たせてある。というより、そういったいわゆる制作プロの仕事の範囲に収まらない話をこそしたいのである。また、そうした話を「現実的な制作プロがしていない」などと、私の知らない世界の現実のことをことさらに主張する気も、ない。

しかし重要なのは、プロダクション(制作プロセス)を経過しなくても、実は音や音楽は存在し、それらは「そういうあるがままのもの」として、必要なかたちで必要なときに必要なひとの元に届いているのである。その量たるや必要より多くも少なくもなく、常に必要なだけ存在し続けているのである。だから食べ物と違って音楽が足りないために餓えて死んでしまう人は出ない。もし餓えそうになれば、その人は必要な音を求めて必要な場所に赴くだろうからである。

さて、話の大前提として、われわれは限られた時間を生きている。ということは、欲しいものや味わいたいものが増えたからと言ってわれわれの求められる時間までが殖えるわけではない。だから人から差し出されたモノの一切合切に立ち止まることなどできず、自分にとって切実な、関心あるものにのみ、自分から手を差しのべて選択することができるだけである。“発信”しなければ必要なものが届かないと言うのは、その点で虚偽である。そのような意味で“発信”されていないものでも、依然として存在を主張するものを私は知っているからである。ものをライブ環境で創り出すことこそが、まさに本当の意味での発信であるが、ここで言っている“発信”とは、そうした創作行為以外のことを指している。

現代の人間が音楽や文学や絵画などの「表現手段」を通して達成したい目的とは、言うまでもないだろうが、単に「知られること」ではなく、個人的で親身な、そして実質的な、ひととひとのつながりであり、あるいは「孤独の共有」であり、“内容”の伝達である。それ以上に大事なものがあるはずがない。知られたいだけなら、おびただしいお金を積めばいいのである。しかもこの伝達という点に絞って言えば、あなたの知っているその“内容”やあなたという人間自体は切り売りすることができない。あなたの知っている100は1000にならない。それどころか200にさえならない。110にさえ届かない。本当のあなたは生きている間にたった一人の人にしか“それ”を伝達できないのである。それさえできればあなたはむしろ幸運だろう。

そうしたときに、自分の心に触れないかもしれないものを「ひょっとしたら触れるかもしれない」という期待だけで身の回りに増やしていくことはできない。自分にとって真に切実なものだけを取り込むということをしなければ、不必要なものが増えて、もはやゴミに囲まれるようなことになる。もちろんそういう寂しい人生もあるだろう。私もそういう人生への参入へと五十歩百歩の場所にいた。これからだってそうなるかもしれない。そして、どういう考えを持っているのかも知らぬ相手と<仕事>として、自分の持っている内容を託すことなどできない。 どうしたって音楽などの制作の活動やその他の<生活>を通してしか、自分を託せる人間を捜すことはできないのだ。 これは、良いとか悪いとか言うことではなくて、そういうことなんではないだろうか。

音楽のプロダクションの条件の話に戻す。断然、その主たる課題は「優れた言葉」というフレーズの中にもある。もちろん、多くの音楽家が、言葉を過小評価しているとも思わない。実際問題、さまざまな局面で多大に言葉のお世話になっているわけだ。(むしろ過大に評価して、訳の分からない言葉を、われわれ音楽をやる人に対してではなく、一般オーディエンスに対して発信して悦に入っている次第もある。)しかし、音楽の演奏者同士、あるいは音楽をプロデュースする人間と演奏者との間の優れた言葉の機能というのは、断じて心象(イメージ)伝達にある。もちろん心象そのものがなければ伝達されるべきコトもない。したがってそこには優れた言葉が介在する必要もない。しかし、結局問題になるのは、記譜され得ないようなレベルの音楽表現上の課題を見極め、解決させる(する)ために必要な言葉を獲得することに尽きると言っていいかもしれない。そして、何よりも物理的な時間の共有が鍵である。

ここで私は、普遍・万能的な音楽記譜上のテクニックや記譜されたモノの解釈などについて、あるいは用語の定義や解釈といった最低限の問題について語っているのではなく、閉鎖的であっても一向構わない、あるグループ間で通じあう言語(符丁)について語っているのである。

あるひとにとって、あくまでイメージを主体として音楽を作成していくのであり、即興にありがちな「偶然に大いに左右された結果以上の何か」を演奏活動から期待するのが目的のひとつとして考えられるのであれば、音に先立つ何かの追究が図られなければならない。そこにはイメージの共有という音楽以前の作業が必須となる。われわれは、それが<言葉>の共有なのだといまさらながら主張しているだけである。

そして、その<言葉>とはポエジーである。ポエトリと呼んでも構わない。ポエジーは本来「詩」や「詩作」ということ以上の意味を持たぬ言葉のはずだと思うのだが、詩を詩たらしめる詩の中のエッセンスとでも言えばいいかもしれない。そして、そのエッセンスは、言葉の意味(ロジック)の伝達と言うよりは、映像(あるいは心象風景)の伝達である。そして、その映像が伝達できれば、それに相応しい音を共同作業で創り出すことが可能なのである。タルコフスキーが共同作業で映画を作成できたように。

それは、もはや記譜の約束や用語の約束や言葉の厳密さなど以上に重要なことであり、それが単に幻想であったとしても、ポエジーの共有体験以上に有効な、言葉を介したコミュニケーションもないと思うのである。あれば心底教えて欲しいとも思うのである。

そこまで私を確信させるに至ったのは、自身のパーソナルかつ切実な体験のためである。そしてその生涯掛けることになるかもしれない実験は、まだ始まってもいない。


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