音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

癒されてる場合か?
November 16, 2000
 
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癒されることに多くの興味が集まっているらしい。しかし私に言わせれば、自分から行動しないところに癒しも平和もない。だいたい、受動的に自然音を集めたCDを聞いたり動物の写真やらを眺めて、心が癒されるとか癒されたとか宣っているのは信じがたいものがある。問題を抱えていてそれで思い悩んでいるときに癒しの音楽とか聴いて「大丈夫」になってしまえるものか? 問題を解決しなければその問題は自分から率先して消えてなくなって行きはしない。せいぜい問題とぶつかって砕け散るか、ぼさっとしていて問題に押しつぶされるかしかない。肉体的な大病を患っていて家族もいないような人には本当の癒しが必要だろう。しかしそのような状態の人には「動物の写真」や「癒しの音楽」なんかより、人との触れ合いや本格的なメディケーション(医療)の方が遥かに助けになるだろう。

たしかに、私自身、音楽で「癒された」ことがないわけではない。しかし何の意味もない自然音に癒しを見出すより、悲しいときに「悲しみの音楽」、腹が立っているときに「怒りの音楽」を聴いて、音楽と共に感情も昂まっていき、音楽の「お話」が終わったとき、自分のやりどころのない悲しみや怒りも不思議と治まっていた、なんてことは何度かある。そんな意味で「癒し系の音楽」なるモノはないと思うが、こちらの使い方次第で、自分を癒すことはできると言ってもいいかもしれない。

しかし、なんと言ってもわれわれにとっての癒しとは「音楽を演ること」である。音楽は誰がなんと言おうと、常に特別な存在だ。恰好の良い言い草だが、事実それに限りなく近い。しかし受動的に音を聞いているような状態より、自分で音を出すことや出そうとすることでの方がはるかにそれは得られやすい。癒しとは言ってみれば、要するにカタルシスの経験だ。受動的に流れてくる心地よい音に身をゆだねているだけでカタルシスを体験できるとは考えにくい。もちろん音楽を聴くということを、本当に感動できるだけの体験に昇華させようと思えば、ただ聴くだけでなく、あたかも音を出す側に自分がいると思えるほどの音や演奏者との「関わり」get in、あるいは「参加」involvement が欠かせない。要するに、音楽でさえ聴いて何かを体験しようとすれば、それなりの聴く側の努力と集中が必要となるわけだ。その行為に必要なエネルギーを注ぎ込み対象を掴み取ろうとしなければ、良いものが「そこにあった」としてもそれを体験できるはずがない。つまり、一見受動的に思える音楽を聴くという行為でさえ、それを能動的活動に昇格させることが努力次第で可能だし、むしろ必要なのである。

というわけで、能動的な働きかけがないところに、カタルシス体験、すなわち「癒し」など在るはずがない、となるのだ。

音楽をもっと直接的な癒しと考えて自分のライブに来ていただいている人がいる(そんな!)とすれば、申し訳ないが、ちょっとそれは一般的な意味で難しいかもしれない。だいたい、演奏者達は簡単に認めようとしないが、有り体に言えば、ああいった即興音楽とかのライブ(や録音行為)でより多くを得ているのは、残念ながら演奏者本人達なのだ。もっと言えば、聴衆の側で「ライブ演奏から多くを得られた」と実感できる類の人間は、これまた即興演奏者であったりするのだ。Let's face it! 即興演奏なる音楽ジャンルは、少なくとも「それしかできない、できることをやって、それでも本質的かつ原始的な音楽体験をしたい」という、周りに無頓着、自己のカタルシス獲得にはどん欲、エゴイスティック、そして獰猛なる連中と、それを心底楽しめるまたごく一握りの人間のためにあるのだ。

演奏者に癒しあれ! そして、あわよくば聴衆にも癒しあれ、でした。But Hallelujah! 聴衆はつねに公正なり!

次に、どうして癒されたいのか、考えてみる。


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