衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

創作活動に集合的な動機付けは必要か [1]

January 7, 2002
(revised on Sept. 18)
 
English version

「人間が芸術を生み出し、それを文化として持続できないのであれば、食べて寝て生殖しそれを反復して死んでいく動物と変わるところがない」。

それは確かにそうだ。しかし以上のことが理由(動機)となって人類が芸術を生み出してきたという事実はないし、これからもそれがわれわれの創作活動(この際、芸術運動と呼んでも良い)の動機付けになることはないだろう。これについては、これから自分の見解が何かをきっかけとして変わることがあるかもしれないが、現時点では考えにくい。一度どこかで述べたことかもしれないが、私は動物より高尚な存在たるべく人間が芸術活動をはじめたというのは歴史的にも違うと認識しているし、今日の世界においても多くの優れた芸術作品が、そうした人類のより高尚な存在たろうとする情熱によって作られてきたものであるというのも違うと考えている。たとえばわれわれ以外の動植物の世界は、あらゆる面で人間より完成しており、自己完結的である。彼らの生き様から学ぶべきは我々の方であるとさえ言える*のである。

* And why take ye thought for raiment? Consider the lilies of the field, how they grow; they toil not, neither do they spin: (Matt. 6:28)

もちろん動植物たちの生き様は一見無意味な生存活動の反復であり、そうした生命の運動を、「単なる不条理でしかない」と捉える限りにおいて、我々人間がそうした動植物よりもすくなくとも多くの点で「複雑」であり、何か「高尚な目的」のために生かされているということを示していそうである。もちろん、物質(宇宙)の存在、生命の誕生、そして生命進化の“本当の理由”なるものが、我々の通常の想像力では捉えられない以上、ひょっとすると今後「われわれ人類がそれ以外の動物よりも、より良く、優れている」ということを証明する時が来る可能性、を全面否定はしないが、現在の筆者はそれに容易に飛びつくことを自分に許せないのである。

あらゆる面で、現在のこの刹那に、我々の目に見える地上での世界が、人類中心に再計画、再整備されつつあるように見えるが、それは人間の地上における重要性を意味していることではなさそうである。人間の作るものが重要なのは、人間自身にとってである。我々のためにまるで用意されているかのように見えたあらゆる食糧、あるいは、それ以外のあらゆる地球資源が貴重であり重要であるのは、それがわれわれ人類の生存にとって都合が良いからに過ぎず、その「資源」が他の生き物にとって同じく重要であることは、無論、意味しない。そしてもちろん言うまでもなく、そうした人類にとっておあつらえ向きの資源の存在と、それを運用する能力によって人類が他種の動植物たちよりも地上で「祝福されている」ことを意味しない。とりわけ、今後われわれ人類の向かっている「行き先」を考えるほどに、われわれの類い希な能力こそが、自身で解決できない困難を招来しているのはほぼ明白だからである。そして、そうしたどちらにも転べるわれわれの能力全般をわれわれはartと呼ぶのである。それは科学、技術、記憶術、記録術、美術、医術、軍事術とさまざまなものに枝分かれしているが、そうした人間の能力がartと呼ばれるに相応しいものである。そして、そもそもartの語源がそれを証している。われわれ芸術至上主義者の信じたいこととは裏腹に、絵を描いたり音楽を奏でることだけが芸術 (art) ではないのである。

さらに、「芸術」などの活動の存在により「人類が特別であり、他の動物と区別されなければならない」という意識は、それこそ他種の生命を軽んじ、地球環境を汚染しても長いこと平気であり得た、人間の心理と根を同じくするものだとさえ思えるのである。芸術を生み出すことができるから人間が他種と違うというのは、ある意味、人類の特性を示す特徴のひとつであろうし、おそらくその通りである。だが、たとえば「人類が道具や火や言葉を使う点が他の動物たちと異なる」と言うのと同じような人類の特性のひとつ(しかもきわめて特異な性質)を捉えたに過ぎない。火や道具をわれわれが使うのを「われわれ人類の違いを際だたせるのため」と動機付けしたとすれば、説得性がないような意味で、である。要するに、それは人間の他動植物との比較によって優れていることを意味しない。人間はそのようにしか生きられなかったからそうしてきたに過ぎず、むしろわれわれは、自身の不完全な生を補うためにあらゆる術 (art) を極めてきたのだとさえ言えるのだと思う。

そう。芸術 (art) は地球や宇宙にとって重要なのではなく、他ならぬわれわれ人間にとって重要な(と信じられる)ものである(あるいは、ものでしかない)。それは宗教にしても然り、であり、全地球規模の視点から見ても、宗教が環境の破壊をくい止めてきたことも、おそらくない*。むしろ、人間を他種の動物たちの存在と区別し、他ならぬ地球環境を破壊してでも持続しなければならない、人間のあまりに人間的な、人間に奉仕するためのあらゆる行動を、宗教は看過し、最終的にはむしろ正当化してきた、とさえ言えるのである。

* 宗教の教えの中に、人間の生き方が環境の破壊と不可分であることを哲学的に考察し、先見的に示唆したことがあったり、西欧の近代化に拮抗した反動勢力としてのカトリック教会が、結果として資本主義的な消費文明への傾斜にブレーキを掛けた(掛け続けている)ことが事実であったにしても、われわれの知っている三大宗教が、そもそも教義として「地球環境を人間の生存に優先せよ」と明確に教えたことはないのである。

しかしながら、宗教の問題は、以上の理由のためにその重要性が否定されてしまうどころか、今までもそうであった以上に、それに対する関心を高めていかなければならない対象である。しかしそれは私にとって、そして、多くの宗教家や信仰者にとって、そして多くの民族集団にとって重要な問題であり、地球にとって重要な問題ではない。

当然の事ながら、歴史的に見ても、人間の芸術的創作活動への指向はおそらく否定することのできない明瞭な特徴であることに変わりはない。しかし、そうした我々の客観的な歴史的概観をもってしても、われわれが、今後、われわれの創作へのコミットメントを正当化する必要に迫られたとき、人類はかつてより動植物と違ったから我々もそのようでなければならない、といういわば後付けの動機でもって創作活動の必要性を正当化するならば、その努力は空しいのである。われわれが常に歴史や先達の業績に学ばなければならないと言うのは、ひとつの条件下では正しい。しかし、先に述べたような「反復して死んでいく動植物」のような生き方を忌避せんがために芸術運動を活性化しなければならない、と言っているようにも取られる表現ではなく、我々の各人に個別の創作への意志がある限り、それは続いていくものだと言う方が自然な主張であるような気がするのである。そして、そうした個人の中に突発的に発生するかもしれない、表現(創作)への意志というものが、挫かれないための社会的寛容と、表現されたものと、それを創り出さざるを得なかった人間への愛(慈悲)を育み、受け容れられるだけの人間に、われわれ各人が成長していくしか、途がないのではなかろうか。

「芸術的創作活動が人類にとってきわめて重要である」という議論自体に私は反論がない。しかし、これまで繰り返してきたように、それは地球環境にとってでも他種の動植物や他民族との相違を明瞭にする立場にとって重要である、ということではなくて、あくまでも純粋にわれわれ芸術を愛し必要とする種類の人間達にとって重要であるに過ぎない。

しかしながら、そのために芸術の存在の重要性を損なう言辞を展開していることも全く意味しないのである。芸術家が芸術家として生きてゆくという、芸術家当人の死活の問題ではあっても、その重要性は、われわれが現にあるカタチでしか生存できない人類の業(ごう)とに関係があることであって、だからこそ芸術活動を以て人類が優れているということではないのである。同時に、多くの詩や音楽を生み出した者が、そうしない者より優れているということにもならない。それは火がなければ生存できなかった初期の人類が、依然として火を使わずに無事に生存を続けているある種の類人猿より必ずしも優れているとは限らないのと同じ意味で。それは単に生存に必要であったからそうしたに過ぎない、のと同じ程度の悲しき生存手段への代替物であるという見方も可能だからである。

私はこのように、個人のそれぞれの必要と切実さに見合った創作への指向とそれを実現するための意志を持つことがまず先決であり、日本にいようと外国にいようと、はたまた外国にいて日本に帰って来ようと、あるいは日本で夢やぶれて外国に活路を見出そうと、それぞれがそれぞれのやり方で自分に相応しい創作の場と仲間を見つけ、それぞれに努力していく環境があれば十分である、という考えにますます傾きつつあるのである。そして、個々人の止むに止まれぬ抜き差しならぬ表現への動機こそがもっとも信頼に値するものだと信じるのである。


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