衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

議論になるなら、そいつは「敵」ではない

August 23 - September 11, 2001
 
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いかにそれが<激論>に類したものであっても、相手と議論になるならそいつは「敵」ではない。少なくとも議論が成立している場合、相手とは拠って立つ立場の多くを共有しているはずだからだ。これについては一度話したことがある。問題は相手と議論にならない場合だ。

すでに立場を築き上げている相手に対しては、理屈や道理を説いたところでもう相手に同じ議論の土俵にあがって貰うこと自体が困難である。(これについては、多少なりこれを読む方々が“他ならぬ私”に対して感じていることかもしれない。)理由はどうであれ、そいつは自分の前に現れた時点で、すでにその立場を守り抜く人物として目の前に来ているのである。このような人との間には、便宜的にもいったん相手の立場に立ってものを考えてみることをしない相手であることが分かった時点で、ある種の敵愾心が、あるいは憎悪がうまれる。多くの異なった信仰者同士が大なり小なりそうしたものである。相手が信仰の拠って立つ原理そのものを再検討するチャンスがほとんどない場合、その相手とは信仰を巡る議論がそもそも不可能なのである。彼の主張する多くのことは、前提となる信仰の対象を否定するところからは、まずもって始まらないからである。

したがって、議論とはそれが当面のコトであったとしても、自分の基本的な立場から一旦便宜的に抜け出ることができる者同士でしか成立しないのである。したがって、抜き差しならぬ立場同士のぶつかり合いこそが、深刻である。一度言った言葉を否定するようである(でも撤回はしない)が、こうした立場同士のぶつかり合いを<愛!>以外の力でもって回避することなど、そうざらにあるはずがない。しかも人間が<愛>を憧憬できても宿命的に全面発揮できない存在である以上、立場同士のぶつかり合いは悲観的結末を大いに招きそうである。

しかし、こうした宗教がらみの「そこに生まれてきてしまった」立場と異なり、どのような訳か後天的に大きく発展させてしまう類の「立場」というものがわれわれにもある。それは「思いこみ」と呼んでも「主義」と呼んでも構わないものである。それは概して後天的に選ぶことのできたハズのものであるので、私は<主義>と呼ぶことができると思う。それは幾つかある思想的な選択肢の中から、どういうわけか選ばれてきてしまったものである。もしそれが後天的な「立場」ではなく、抜き差しならぬ生まれながらの立場であるなら、それは主義たり得ない。*

* その意味で、たとえば、私は「実存主義者なる者はこの世にいない」などと言うのである。その代わりと言ってはなんだが、私は「生まれながらの実存者はこの世にいる」と言うのである。つまり実存というモノは、ひとつの選択肢として選べるものではないのである。あなたは恐らく「実存者としてこの世に生まれる」のである。同じことが<ご都合主義者>にも言えるわけである。そのような「主義者」はこの世にいない。そのような主義主張はこの世にない。いるのは<ご都合者>だけなのである!(← 私も胸を張ってそうだと言える!)

話を戻す。私と議論になる人々は、私にとって如何にそれが辛い激論を通過することになったとしても、本質的に私の敵たり得ない。そして、私のことを「嫌な意見を言うヤツだ」と感じても、私の文章を最後まで読んで理解してみようと思う方々は、私の立場を便宜的に一旦受け容れる準備(本当に受け容れるかどうかはともかく)があるという点で、既に「お友達」である。むしろ、最初の数行を読んで、何ら共有するべき部分がない、何ら理解に値するものがない、まったく未知な存在である、と黙殺できる人々こそが、将来私の前に現れたとき、私にとっての真の脅威になるのである。同じ土俵に既に立っていない、そんな人々と私との間にあるのは、議論とかいう生易しいものではなく、言論封殺などの「実力行使」が待っているのかもしれないし、生涯交わることのない冷たい平行線が続いてゆくのかもしれない。選べるものであるならば、ぜひ後者であって欲しい。

人の文章を読んでいると、もちろん同じ音楽に関わっている人たちでも、如何に意見やものの感じ方や主張に至る道程が違うかを実感する連続である。しかし、違う意見自体が怖いわけではない。主張に値する論陣を張っている人ほど、私はその人と通ずるものがどこかにあるはずだという楽観的な見通しを得るのである。私が相手の弱みを突いて主張を切り崩しに掛かったり、他でもない立場そのものを攻撃しているような印象を与えるのかもしれないが、実は逆に、私が「突いて」来ない部分に関しては共有しているのだろうし、そういう私が突かない部分の方がむしろ主要な部分なのである。だって、同じであればそこで肯いて終わりではないか。しかし、もし私が相手の立場に対して反感を抱いているような印象を与えるならば、むしろそれは救いであると思っていただいて良い。私はその立場をことによると「愛する」ことが可能かもしれない、と思って近づいているだろうからである。ただし、よくよく近づいて「これはやっぱりイカン」と思ったら、私はそれに対する攻撃を一気に強めるだろうとも言えるけど。

それよりも、主張そのものがないコメント...自分の立場を明確に自覚していない、場面場面で、あるいは話し相手によって、矛盾するような場当たり的な意見を出して気付かぬ人々を私は畏れる。また、禅問答のような、一見意味を成さないような意味深長な表現を日常的に使用し、それだけが本質的コミュニケーションを可能にすると信じているような、あらゆる分野での「師匠」達を、そしてそうした特定個人への追従者たちを、私は畏れる。


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