衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

これからの世界

October 11-12, 2001
 
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結局どんな時代でも戦争という名の「正義」や「混乱」の陰で汚いことをするのが国家というもので、また<これまでの人間>の姿でしょう。きれいな戦争や正しい戦争なんてものはどこの世にもあり得たはずがありません。その点は今も昔も変わりはなく、今回のアメリカとその協力者によるアフガニスタン報復攻撃という事態ですら、いろいろな理由で正義の名の下の“やむをえぬ選択”として容易に信じられるわけです。テレビ中継でNYの住人がインタビューに答えて「政府もよくよく考えたあげくのアクションでしょう。いずれにしたってわれわれは何かをしなければならなかったんですから」みたいなことを言っていましたが、彼にとっては「何かをしなければならなかった」ことが他国への爆撃でもかまわなかったわけです。そういうことを言っているこの住人は、当面自分が殺されることはないと考えているわけで、彼の政府がやっている事へのその「無関心ぶり」は、われわれの多くとそう大差ありません。殺人が国内で起こればそれは「あきらかな犯罪」ですが、同じ殺人でも国家が言葉や力をもって正当化すれば犯罪でなくなり、しかもそれが海の向こうで起こっていれば、当面しのぎうる日常となります。また戦争という日常に慣れていくのがわれわれ普通の人々な訳です。しかも今回の「新戦争」とやらは、「湾岸戦争の時のように報道されることはないだろう、だからみんなも解っといてね」とあらかじめホワイトハウスも念を押すほどの手の回し様です。

さていつまで続くか分からないこれからの「新戦争」も何年何ヶ月と続いていくうちに、他のほとんど全ての戦争がわれわれ非戦闘員にとってそうであったように、ついに日常化されるようになります。しかもドンパチ派手にやらずに続く戦争だそうです。「テロ殲滅」を高らかに謳う皆さんの頼りになる政府関係者は、これからは堂々と“地下活動”に専念する事ができるようになります。つまり政府がどんな怪しげなことをしても「何をしているのか」「何故そうしているのか」の説明義務から免れることができるわけです。なにしろ「国家(国民)の自由と安全を守るため」という“説得力ある説明”のために、皆、そこで黙って政府の地下活動を容認するようになるからです。いまだってそれについて語るのさえ忌み嫌って無関心を決め込んでいるのが私たちの大部分なんですから。これが闘い守り通したものでないわれわれ「自由社会」の現実です。さてもっと具体的に、政府や国家の地下活動がどんなものになるか考えてみます。それは、われわれの思想のチェックまで及ぶ類の広範なものとなることが想像できます。どのような本を読んでどんなTV番組やウェブページを見ているのか、誰と電話で話をしたりメールのやりとりをしているのか、等々、われわれが何を考えているのかを推定できる、われわれの日常的行動のすべてに関わってきます。

イスラム教に限らず「宗教」の教えに興味を持ち、われわれの文明の在り方に懐疑を抱きそうな人間は、案外「目覚め」たり行動に移る前に、政府によって「捕捉」され「摘発」されてしまうかもしれません。あるいは、そのような考えを抱かせる恐れのある本などは、出版前に芽を摘まれてしまうかもしれません。すでに政府たちは言いだしているわけですが、彼らがそのようなことをできる正当性の説明は、すでに何度もわれわれが聞いているように、次のようになるでしょう。「民主主義社会の自由と安全を守るためです。それを脅かす可能性のある者達を根絶やしにするためにご理解とご協力を!」。私なんか、言いたいことを言っているからさっさと「根絶」されてしまうひとりかもしれませんね。

「新戦争」の日常化によって再び安穏に人々が暮らし始め、どうしてそのような「戦闘」や政府による「地下活動」が必要なのかと、ようやく疑問の声を上げる人や厭戦感が出始めるかもしれません。するとまるで頃合いを見計らったかのように、別の小中規模のテロが起きるでしょう。そしてふたたび国内での“綱紀粛正”が図られるのです。常に敵は外にいるようでいて、実はそれを利用して国内の普通の人々を巧妙に支配するのに利用されるはずです。そうなったら一体誰が実行犯なのかというより、一体誰がその「テロとやら」の到来を待っているのか(つまり動機を持っているのか)を私たちは見極める目を持たなければならなくなります。

考えたくもないことですが、この点で言うとアメリカの報復攻撃に対する反対が根強い国でこそ「テロ」が起きる(ということは「テロ」活動の実行が許される)可能性が高いと言えるかもしれません。そうなると日本などの国内で起こるテロ(あるいは“未遂”も含めて)こそ、アメリカ合州国がこの国を意のままにするためのさらなる理由とするでしょうし、その予測から言うと、実は日本におけるテロリズムは「非常にありそうな事」ということなります。そうなれば「テロ根絶運動」や「破壊活動防止」をこの国の人々がこれまで以上に熱心にサポートするだろうことも容易に想像できます。そうなったときに日本で起こる政府による国民への統制は、現在アメリカに見られる現象以上の苛烈なものになっても筆者は驚きません

皆が顔をしかめて嫌う、ほとんどタブー化したお話ですが、「オウム真理教のせい」とされる地下鉄サリン事件以降に起きている警察などの治安当局による捜査や容疑者の指名手配のやり方*などを見ていれば、現在でもわれわれの置かれている状況は五十歩百歩と感じずにはいられません。どのような犯罪でも実行されれば、それは個人による個別の犯罪であるとの基本に戻る必要があります。いかに感情的に憎悪が背景となる信仰集団やら会社組織、あるいは民族集団に向かいがちだとしても、それを裁く方法は、個別に刑事犯罪として刑法に照らして行われなければなりません。そして実行を指導した犯罪の指導者は「殺人の教唆」という立派な刑事犯罪者として裁かれることが可能です。

容易に賛同して貰えそうもありませんが、個人によって実行された犯罪と実行者の属する集団は、実は容易に結びつけられるべきではないのです。それをするためには集団の内部に深く捜査する者が潜り込まなければならないですし、あるいは個人と集団の結びつきを立証するためには盗聴など国家による憲法違反の地下活動を可能にするしかありません(一部すでに可能になっている)。しかし犯罪を集団によるものと結びつけ「組織によって計画された犯罪」だと裁判による審理前に断ずることを許せば、その組織に属している全ての者の人権が抑圧されます。現に抑圧されています。監視小屋を作ったり住む場所を奪ったり住民として認めないなど、皆さんの隣組的で“良心”的な自主活動を通して将来の新たな敵を製造し続けているわけです。このようなまるで戦時中を思わせる民間人による弾圧を許している国家など到底法治国家とは呼べません(恐らく当局もそれと知っていて「勝手にやらせて」いるのでしょう、ほとんどだれもこの宗教団体に同情しないですから)。仮に問題となる組織全体に犯罪への指向や動機がなくてもその弾圧の手を弛めません。ひょっとして心中にそうした動機があったとして、どうしてそれをわれわれは犯罪が起きる前に「立証」できるというのでしょう。それを行うためには治安維持法や破壊活動防止法(破防法)などを適用しなければならないでしょうし、それを行えば組織や宗教の弾圧という途は避けられません。しかもそうした弾圧を正義感満ち溢れる「普通の人々」が当たり前のことのように平気で支持するようになるのです。

それは支持する大概の人々が、自分たちが決してそのような「危険な集団」に関係することはないと考えているからです。自分がそのような立場に置かれることを想像することができないのです。国家に対して行きすぎた捜査やプライヴァシーの侵害を許す第一歩が、ゆくゆくは自分に降りかかってくる火の粉であると考えられないからです。そうした国家のやり方に賛同する人々は、自分のメールを盗み読まれることを許さなければならないし、自分の寝室に隠しカメラやマイクが付けられることを我慢しなければなりません。これは戦前戦中に共産党を支持する者、彼らへの家族や共感者、もしくは共産党員であっただけで、犯罪者と見なされ逮捕され拷問されたのとその本質は同じなのです。こうしてまともなことを言う少数者は、自分とは関係ないと考える大多数の人に見捨てられ葬られていくわけです。

* 組織による犯罪であるかどうかの審理が裁判で続けられている時点で、テロ実行犯と見られる各容疑者の名前の上に「オウム真理教」と肩書きが付けられた指名手配写真が町中に貼られた(今でも貼られている)。筆者はこの「(疑似)宗教」に対してとりわけ共感や同情を感じないだけの分別を持っている。また筆者は犯罪を憎むが彼ら実行犯がどんな宗教を信奉しているかなど「特別視しない」だけの分別も持っている。それは、容疑者(判決が出るまで犯罪者と決まったわけではない)がオウム真理教の信者であるかどうかなどを言い出せば、同時にわれわれの信仰や思想の自由をギブアップすることを意味するからである。また、もしオウム真理教が本当にテロリスト集団であったとするならば、他の大概のテロ組織がそうであるように、それが他ならぬ国家や報道機関の弾圧によって追いつめられ、先鋭化したためにまさに「作られた犯罪」であったという見方で捉え直してみる必要もある。

「犯罪者の人権云々を言うおめでたい民主運動家などの性善説遵法者が将来のさらなる陰惨な犯罪を許している」と断じ、“断固たる措置”を執ることを主張するひとが沢山います。しかし勘違いしてはいけないのですが、ここで筆者は殺人や強姦など猟奇的犯罪に走り捕まって判決を下された当人(個人)への「基本的人権」を云々しているわけではありません。ある犯罪者個人が属していたという集団に帰属する、他のほとんどの非/未犯罪者の人権を云々しているのです。ある思想や信仰に連なっているという事実を根拠に、全ての組織関係者を犯罪者扱いし弾圧する人権侵害を云々しているのです。そうした摘発や“予防”の実力行使が、可能かつ必要だと考える人は、踏み絵を踏ませてキリスト教信者を炙り出した江戸幕府の考え方と大同小異だと言いたいわけです。

繰り返すように、われわれは犯罪の背景を考えるとき、弾圧による“予防”を真っ先に考慮するのでなく、そうした組織や宗教団体に活路を見出す人々を造りだしている社会構造や習慣、そしてわれわれの文明の在り方の根本を考えなければなりません。そして他でもないわれわれがそれと気付かずに、そうした人々を追いやり「犯罪者」に仕立て上げるわれわれのモノの考え方自体を再考する必要があるのです。国外で現在起きつつある報復攻撃を反対する理性をお持ちの方々は、わが国内における縮図であるところの国内のテロに対しても、熱くなっているアメリカを批判するのと同じ態度で冷静に捉えられなければならなかったはずです。

現実問題への対策を優先する必要があるからと言って、われわれが容易に諦めてはならないことが、この国にはまだまだあると申し上げたいのです。(revised in October 15, 2001)


見るとためになるかもしれないお話

これはNew York Timesの最近の第一面の体裁

矢印を見ると、新しいバナーが。それをクリックすると、こんなページに跳べる。彼らがいかに雰囲気を出しているかが分かる。これが私の言う「理屈でない」状態である。「あなたの愛国心を国旗で示せ! 我が国の自由の象徴たる国旗を!」と、図らずも彼らの戦いが「自由と民主主義のため」ではなく、「自分の国の自由」に他ならないことを告白している。

戦争がアメリカさえ益しないことは筆者が知っている限りでも下のような人々が主張している。

戦争はアメリカを不幸にする」田中 宇(10月18日)
狂気の『文明の衝突』戦略はアメリカが発明した」神保 隆見(10月26日)
暴力では解決しない」ビル・トッテン/ハワード・ジン(10月3日)
合州国大統領に対して発せられた新聞全面広告による質問状/Global Peace Campaign(10月9日)

必ずしも「報復」を望んでいないことを表すテロ被害者の家族の手紙
戦争に反対するアメリカの退役軍人の会

アメリカ合州国内にもさまざまな考えを持った多様な層の人々がいることがこれからも分かる。


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