衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

邪悪な磁場としてのランキング

August 1-2, 2001
 
English version

ものごとの多様性があらゆる局面で重要だという言い方が出てくるのには訳がある。何となく<多様性>という言葉の響きが良いとかいう理由のためではない。一方、ランキング・ナンバーワンは響きが良いが、どうしてナンバーワンが良いのか、その根拠を示すのは簡単じゃない。というよりは、突き詰めて考えていくほどに、根拠が見いだせないという袋小路が待っているのである。

井の頭線・渋谷駅の改札を出てJR渋谷駅へ向かっていくと、<それ>は出現していた。<その店>が話題にならなければならない理由は一向私には見いだせないのであるが、それは「話題にならなければならない」というどこぞから発令された根拠なき至上命令のために、すでにテレビ局などの方面から取材攻勢にあっていた。現在もっとも売れているあらゆる種類のグッズを集めて店頭に並べただけの無差別ショップである。その店の販売ポリシーとは、どのような種類のものを集めるかを「考える」ことではなくて、数として何が一番売れているか、という統計だけを根拠にすえて店頭に並べるというものである。<その店>に行って中を見れば、CDで何が一番売れているか、雑誌で何が一番売れているか、清涼飲料水で何が一番売れているか、文房具で何が一番売れているか、などが一目瞭然に分かる仕組みとなっている(むろん分かったところで、それが私の人生に何の関わりもないんだけど)。ただし、確かに言えることは、一番売れているモノばかりだから、<その店>に並べられている商品はCD屋、本屋、コンビニ、文房具屋などなど、それぞれのどこででも簡単に見つけることが出来る、“見たことのあるモノ”ばかりなのであって、そうしたものが品物のカテゴリーに関わらず“整然”と並べられているだけの話である。実にアリガタイ店である。

しかし、この<店>に限らず、どこへ行ってもランキングは大手を振っている。本屋に行けば一番の売れ線は、いちばん人目に付く場所にまとめて積んであるし、CD屋にしても同じようなものである。しかし「一番売れている」という理由で、一体どんな人が自分の読んだり聴いたりするモノを決定するのであろう。一番売れているということは、本当にみなさんにとって一番たいせつなコトなんだろうか? 

特に商売として何かをやるというなら、どこにもないような物を店に置いてやろう、ここでしか手に入れられない物を扱ってやろう、という真の商魂を持って欲しい。それが自分にも他人にも役に立つ多様化への方向性だろう。本屋なら、誰もまだ聞いたことのないような面白い作家の面白い本を置いて欲しいし、CD屋ならまだ誰も聴いたことのないアーティストの秀逸と信じられる作品を誇りを持って置いて欲しい。それが、本来多様化の求められる世の中で、本当の意味で<時流に乗る>ということではないのか。それとも、時流は私の思っている方向と逆へと息せき切って流れているのだろうか? すなわち、単一化された価値観とそれに資する単一的なサービスや物や思想が横行する世界へと。

「一流」志向の人や<店>の経営者に直接訊いてみるのが一番手っ取り早いと思うが、そういう人とはお付き合いがない。もし自分は一番売れているモノだけで自分の部屋を満たしたいと考えるのであれば、あの店に行けば一気に揃えられる。でもあの<店>にあるような退屈なモノばかりを自分のウチに持ち込もうとする人なんか一体どれほどいるのだろうか? そこには自分の必要や好みを考える必要も、哲学もない。

女王蜂は、ひとつの蟻の社会の中のいわば“ナンバーワン”である。しかし、女王蜂は他のすべての働き蜂と比べてより良い楽しい人生なのか? 女王様や王様であるということは、支配すると同時に他のすべての人より、重たい服従の義務を負う。より良く支配し、被支配者を自然の摂理に適った生活をさせるという役割に服従しなければならないのである。でなければ、その地位は遅かれ早かれ追われてしまうであろう。そんなことを思うと、一番であることなんて最低最悪のことのようにも思えてくる。女王蜂は彼らには必要だろうが、卵の製造機械のようなその存在は、私の目には醜悪なだけだ。「一番」(ナンバーワンの)権力を持っている政治家が「一番」長生きした場合、それが善人顔した人であることが想像できないのは、あながち根拠のないことではないかもしれない。

「僕は子供の頃から何でも一番になるように、いつも父から言われてきました」みたいなことを言う成功したスポーツ選手とかが出てくると、「それで、オヤジさんにどうして“ナンバーワン”でなければならないの? その根拠は何なの?と尋ねればよかったのに...」と思う。私は、そのオヤジさん自身が何に関してもずっとナンバーワンだったのか、それを問いたい。もし本当にそうなら、どうして子供にそれを強要するのか。それとも反対に、おそらくナンバーワンでなかったからこそ、そのようなモノを子供に期待できるのではなかろうか。なぜならナンバーワンであるということの意味を真に実感していたら、それを子供に強いるなどという挙にどうして出られるであろうか。そもそも、自分が本当にナンバーワンであるなら、子供にそうなれなどと言っているヒマもないはずだ。だって彼は子供が“ナンバーワン”になったら自分が“ナンバーツー”にならなければならないのではないか。だから、それをコドモに求めるのはホントは矛盾である。

何にでも一番になるように子供を飼育する親というのは、そのことの意味を考えたことがあるのだろうか? それは、こどもを幸せにする近道というより、こどもを決定的に不幸せにするための近道なんじゃないだろうか? 「一番がいちばん」と言うのなら、それを要求する親たちは、こどもに一番であることの孤独や寂しさも教えなければ片手落ちだし、そうなったときに同時に得てしまうはずの、もっとも重い義務の存在も教えなければならないのが筋だろう。それとも、親である自分が世代交代で消え去ったあとも、彼らがこどもを持ったときの「何でも一番」の状態が、おとなになってもずっと続くと思えるのだろうか? ましてや、「一番」とは、どういうコトなのか? 走って一番早いことが一番なのか? 一問も間違わないで、おとなの質問に満足に答えることが一番なのか? 野球チームでエースになることが一番なのか? 学芸会の演劇で主役になることが一番なのか? それって誰の決めた価値観に基づく「一番」なのか? そして、そうした「一番」を造りだし、そうした比較において初めてこどもの内面に培われる「自信 pride」は、一体これから何人の人を傷つけていくのであろう。そしてそうした教育方針とはいかに彼らの言う「自由主義思想」と対立するものであろう。邪悪な磁場としてのランキング制とは、実に早い時期に学校で始められるのである。そして、その“あまりに屈託のない単純な発想”の延長上として、あの渋谷の<店>もあるのである。

競争がいかに芸/能の健全な継続を損なってきたかを考えると暗澹たる気持ちになる。コンクールに勝つことが最高の演技であることを信じてしまう多くの人の存在を考えると、悲しい気持ちになる。創作の歓びを知る前に、「一番」になる悦びを知ってしまうわけだ。そもそも何かの芸や能力を究めるということは、競争を通じては達成できない。他人と競った瞬間にその芸はもはや行き場を失うのである。他人と競争した瞬間に、あらゆる求道者は敗れ去るのである。競うことを選んだ瞬間に、その人は二つの意味で敗北する。ひとつは、まともに競争をして勝者になっても、永久に勝者たり続けられないという如何にも当たり前な「勝者必衰」の無常の理がある。もう一つは、競った自分がその瞬間に「何か」に敗れるということである。(恥ずかしながら、私なんて、しょっちゅうこれに敗れている)

根拠を説明するのは容易でないが、根拠なき主張を排除することを宗としてきたので、自分なりの説明を試みる必要はあるだろう。

音でも色でもカタチでも運動でも、創作や行為にあたって、行為の対象に向かうわれわれの集中力や求心力が、他人の存在や在り方を意識した瞬間に、分散(もしくは瓦解)するということがある。これは、別の言い方をすると、自分の内面に持っていなければならないもっとも厳しい判断能力を鈍らせてしまうことを意味し、競争が発生した以降の集中とは、自分の創作への集中とは異なったものに変質してしまう、ということである。善いものをつくりたいのか、それともナンバーワンになりたいのか、この二つは似て非なるものである。

博愛を基礎とする共同体でないわれわれの社会において、競争が「経済」活動のなかで重要な核となる原理であることには、残念ながら疑いがない。より便利で、より早く、より安く、という誰にでも分かる“快楽度合いdegree of comfort”(価値判断ではなかった)の判定の中での勝負が、この世での最終局面に差し掛かって、唯一の“価値”基準になりつつあるからである。そして“経済”活動そのものが、そもそもの意味である「相互扶助」でなく、生き残りを賭けた万人の万人に対する争いに堕しているのであるから、それは当然である。売れることで生活が成り立つ以上、売れなければ、商売(ビジネス)にならない。ビジネスにする以上、同じ質の物ならより安く、同じ値段の物ならより質の良いものを、同じ質で同じ値段ならより迅速に提供する人や店を(共同体員でなく)消費者は選ぶからである。

最後に、根元的、且つ逆説的に、“ナンバーワン”というのは実は誰もがそうである、という言い方で無効化してしまうこともできる、と言わずもがなのことを断っておいても良いかもしれない。「○○について一番」というギネスブックにも見出されるようなnumber oneの多様性は、あの小さな本のなかに収まりきれるはずのない、もので、結局は「何についての最高」なのか、のカテゴライゼイションの定義の問題なのである。そして、実はひとりにひとりに存在しているはずのことなのだと信じることで、その無効化は可能となる。


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