音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

6月20日横浜にて『6人の音楽家による即興演奏』を聴く
June 22, 2001
 
English version

何度か共演させていただく機会のあった即興ギターの榎田竜路さんが、横浜アートプロジェクトの一環として、去る6月20日、その第一弾『詩を主題とした、6人の音楽家による即興演奏』と題したグループによる即興コンサートを行った。演奏者は次の通り。

田村夏樹(trumpet)
覚張幸子(詩の朗読、vo)
四方暢夫(piano)
奥脇浩一郎(drums)
チャーリー・トーマス(薩摩琵琶)
榎田竜路(guitar)

そのコンサートに立ち会うことで、善きに付け悪しき?に付け、さまざま興味深いことを見出したので、出来るだけ率直に感じたことを書こうと思う。もちろんこれを記述することで、直接間接、あるいは時をおいて、自分自身にも「返ってくる」ものがあるだろう事を十分に承知してのことであって、そういったことを引き受けてのことであることも一応断っておきたい。また、一度別の所でも述べているように、これは一見「評論」のごときものでありながら、自分自身が音楽をする者であり、その点でここで記述することが後々自分を「追い込む」ことになるかもしれないことや、自分の今後の演奏活動のあり方について、「より面白いもの」にするために役立つ真剣な考察となるよう仕向けなければならないことも分かっている。そもそも自分の中のまとめとしての意味が強いのだ。



題名と内容

『詩を主題とした、6人の音楽家による即興演奏』...興味深い即興コンサートの題であった。筆者自らが集団即興でしばしばテクストを使うこともあり、また最近始めた「朗読される詩」とのコラボレーションにハマっているせいもあり、「詩を主題とする即興」というものに他の人たちがどのようにアプローチするのか、特に興味をそそられたのであった。もちろん、言うまでもないことだが友人・榎田さんがどのようなギターを弾くのかには、いつでも興味がある。

それはさておき、この辺りから少々辛いコメント?が続くことになる。

題名から想像できるものを期待したひとにとっては、『詩を主題とした...』というのは、少々「看板に偽りあり」と言わざるを得ない。なぜなら、どう好意的に捉えようとしても、その日のパフォーマンスは、「詩を主題とした」ものではなかったからだ。「Voiceを大いにフィーチャーした即興演奏」ではあったが、この日の即興演奏が「詩を主題に」、すなわち「詩を中心に」据えた上で、そのテクストへの演奏者の「理解」なり「感じ方」なりが音楽(あるいは音楽を造ろうとする行為)に反映されたものとは全く感じられなかったのだ。すくなくとも、即興参加者のヴォイスを除く他の5名が、「詩の内容」(つまり詩そのもの)に対し、それを主題として「扱う」ということについて、同じコンセンサスがあったとは考えにくいのである。

もし、「いやいや、そうではない。もとより即興以前に何かコンセンサスを設けること自体に興味がない。演奏者の<詩>への理解なり感じ方を基に即興を展開することは、もとより目指していなかった」というのであれば、『詩を主題とした云々』というコンサート・タイトル自体が適切でなかったというだけのハナシなのだ。

もちろん、題名が表すようなものを目指したが、諸事情でそうならなかったということもありうる。そうだとすれば、それはそれでいろいろな理由が考えられるし、ある種の課題として残るとしても、ある程度仕方あるまい。即興された音楽の内容自体が、それで損なわれたとかいう話をしているのではないからだ。ひょっとすると、榎田さんは実はそれを目指したし、voiceの覚張幸子氏もそれを意図したが、他の参加者が詩の内容をテーマ(主題)として捉える気がもとよりなかったとかいうこともありうる。あるいは、榎田さん自身がそのようなことを目指していなかったにも拘わらず、そのような題名にするよう、どこぞから示唆を受けたとか、はたまたちょっと気の利いた題名を付けてみただけのハナシなのか。まあ、いろいろ想像が巡る部分ではある。しかし、その辺りの「真相」はどうでも良い。演奏がすべて終わって「名と体が一致しない」というのは、何となく気持ちが悪いと感じただけのことである。

ただし、その日私が聴いた音楽が、そうした題名を度外視して考えたとき、依然として面白いものであった事に違いはない。確かにこんな事から話を始めると、この日のパフォーマンスは全く面白くなかったような印象を与えるかもしれないが、そういうことではないのだ。ただ「良かったねえ」というような話はあちこちから聞くだろうから、あえて自分は「悪者」に徹してみようではないか。

「調和」を突き抜けてくるものを求めること

この日の音楽的な出来事(あるいは構造)は、私には次のようなきわめて簡単な数行の言葉でまとめてしまうことができると思った。その日の音楽は、

「ほとんどすべてのピース、あるいは場面場面が、ある特定個人のメンバーのいわば“独奏”的(“独創”的だったかどうかはこの際どうでも良い)とも言えるイニシアティブをきっかけに始まり、そのメンバーの作りだす膨らましたり窄めたりというダイナミックスによって終始全体が支配され引っ張られて進んでいき、そのメンバーが打ち出すものに乗ってすべてが進んでゆく。それが静かに消えていくと、全体も消える即興だった」

と言うことである(そして、そのあるメンバーとはdrumerの奥脇浩一郎氏である)。もちろん単純化したものの言い方ではある。それに実はこんなことはどんな即興グループでもそんな珍しいことではない。グループ内のある特定の個人の動機(モチーフ)なりアイデア、あるいは誰より先に出て音楽的なイニシアチブをとろうとするある個人の熱心さによってその他の即興者が引っ張られていく、などということはよくあることだからだ。但し、この日の即興は、それぞれに十分な演奏技能を持つ即興のベテランと言われるような人を集めて行われているのであり、ある意味で私にとってはそのような展開に終始したことは意外だった。たしかに、ピアノのように音域もダイナミックレンジも広く、しかもコードを打ち出せる楽器とか、ドラムスのように明確なリズムを打ち出すことが出来、しかも音量の大きな楽器が、集団即興の中である程度支配的な存在になることはありがちなことだし、この2者がどのように音を出すかで、全体が決まってくるなんてことは、やはりよくあることだと思う。ピアノやドラムスと共演しているインプロヴァイザーの方なら、多かれ少なかれ心当たりがあるだろうし、そうした楽器の性向に期待して共演する人も多いだろう。そして、私の述べていることは、それが良かった悪かったという話ではなく、そのように私には明瞭に感じられたと言っているだけなのである。そういった即興の展開が問題だと考える人が、次にどうしたらいいのかを考えればいいことなのである。そしてそれで良かったと信じられるのであれば、それはそれで結構なことである(断じて皮肉ではない)。

そのdrumsを除く5人の中でも、敢えて言うなら、榎田さんがギターで遠慮せずにいろいろなアイデアをなるべく躊躇わずに表面化させようと努力していたというのはある。一応、それは銘記しておく。

それぞれの演奏者には、たとえば恐らく「ジャズ」のイディオムなどを身につけている人もいるのだろうと推察されるが、そのような誰もが一聴して認識できるような様式(音楽言語)は、その日、ほとんど認識できないほどに抑制されており、それ以外の方法で音を出すことをしないと各人が決意していたようにも見えた。それが功を奏してか、ジャズ演奏家がする、いわゆる「フリージャズ」を思わせるような音ではなく、典型的な「フリー・インプロヴィゼーション」の鑑のような内容ではあった。自分の内面から聞こえてくる、あるいは外から物理的に聞こえてくる音に耳を傾けることでしか絶対に音を発しない。と、このようにあたかも決めた様子で演奏者はそこにいたのである。そしてそのようなアプローチからは、当然の事ながら、誰ひとりとして「突出」してしまうことなく、全体の中に溶け込み、あるいは他人に隠れながら、しかも共演者を挑発することもなく(奥脇浩一郎は例外)、緩やかなダイナミックスや音色の変化のカーブを描きながら音楽が進展していくに任せるという「無為自然」のみが唯一最良のアプローチであると言いたげな音楽となっていったのだった。

一般の読者の誰もが理解できる比喩ではないかもしれないが、たとえば、冗長に演奏されたブルックナーの交響曲を延々と聴かされるような退屈さがそこにはややあったのだ(失礼、実はそこまでヒドイものではなかった)。もちろん、どこの世にもブルックナーの交響曲を良いと感じられる人はいるわけで、それも好き嫌いで片付けられてしまうことかもしれないが、私が彼の交響曲に対して感じるある種の退屈とは、人間の姿やドラマのない大氷原の映像を延々と見せられているような単調さに通じるものがある。誰もがそれを賛同する必要はないが、私はブルックナーより、マーラーの交響曲のような人間による余りに人間的なドラマにこそ感動を覚えるのである。それには激する心や悲しみや死や愛への恐れや憧れがあり、また迷いの反映がある。

時にブルックナーの交響曲がそのような効果を与えてくれることがあるように、こうした調和的な即興というのも心地よいことがある。自分自身の音と自分の内面に鳴り始める音をしっかり見つめ、それを逃さずに掴み取り、且つ全体の中で突出することなく、全体へのバランス感覚と純然たる共同作業のみで音を紡ぎだしていくというのは、それだけで簡単なことでないのはじゅうじゅう知っているつもりだ。そして、私の考えによれば、良好な結果を生む集団による即興が、そのような不断の努力に大いに依存していることも否定しない。いつもの反対を主張しているように聞こえるかもしれないが、このたび私は良好な即興を可能にする要素とは、それだけとは思えなくなったのである。現に、その日の演奏からは、私の胸に刺さってくるものは期待できなかった。あくまでも彼ら6人で作り上げた音楽は、ひたすら柔らかで「調和」的なものだったのだ。無論、絶対的価値云々などということは誰にも語ることはできない。それに音楽が激しければいいというものでないことも承知しているつもりだが、率直に言ってその日の演奏は立派なものであったものの、私には少々物足りない感じが付きまとった。

指揮のようなものの試み

そして、今回もう一つ私が「課題を見出し」てしまったことがある。それは、今回の演奏会の中では恐らく「白眉の瞬間」を創りだすことが予定されていた(のかもしれない)、正にそのことについての私なりの見解である。先日私は、自分なりの指揮と音楽についての見解を述べた(June 19, 2001)ばかりであったが、正にそれとつながりのある話なのである。

今回、即興メンバーの一人として薩摩琵琶奏者のチャーリー・トーマス氏が登場していたが、彼がコンサートの前半と後半のそれぞれ1回ずつ、琵琶を置いて、他の演奏者5人の真ん中に移動して「指揮」をしたのである。「指揮」とかっこ付きで書かなければならないのは、それが一見して指揮のようなものであったものの、本来的な意味で指揮となっていたとは認められないからである。

音楽における指揮とは、前述の見解(June 19, 2001)のように、文字通り、全体を指揮することである。指揮 (conduct) とは指示であり制御であり、そのための具体的なcueであり、場合によっては「鞭を振る」って音楽を走らせる拍車である。前記したように、音楽の演奏者による自主的な運動に任せられないほど編成が大きく、演奏者同士の自主的なアンサンブル努力に限界がある場合に採らざるを得ない、本来的には理想的とは言い難い「必要悪」である。それは音楽のジャンルに関わらず、編成が肥大化した後の音楽の便宜的な中心点であり、既成事実化した大編成アンサンブル(楽団)の顔であり、監督であり、楽長である。音楽は本来人数が少ないほど、鋭く真実のものである。純粋なアンサンブル(2人以上の人間による音楽)の楽しみというものを考えても、理想的なのはデュオであり、多くてもトリオが鋭いまま音楽を具現化する限界点である。ある種の音楽的「効果」を楽器の多彩なバリエーションなり、編成の大きさに求めた場合の妥協案が、本来音を出すことのない「指揮の専門職を中心にたてる」行為なのである。

あるいは、前回も主張したように、音を出さない音楽上のアイデアの保持者が、リハーサルを重ねた上で行う極めて独裁的な音楽創作の手法なのである。

その点で言うと、チャーリー・トーマス氏の行った(行わされた?)ことは、どのような観点からも指揮とは認められない。傍目から見て指揮のようなものであるが、似て非なるものである。なぜなら、彼は自主的に彼自身の音楽的アイデアを具現化するために、他の演奏者の前で鞭を振るったわけではなく、出てくる音以前の何らかの音楽的アイデアを明示したわけでもなく、出てくる音に合わせて体をなめらかに動かしていただけだからである。現に彼の体の動きは、面白いほどに出てきている音と同時進行(シンクロ)しており、音とのその平行運動は見事なほどだった。しかしながら、それは彼の体の動きが他の演奏者にとっての音楽的端緒となるよりは、出てしまっている音に対して可能な限り調和的に体を動かしていたことを示しているに他ならなかったのである。

ということは、彼のやっていたことは、本来的に指揮者の機能としては「ほとんど意味をなさなかった」のである。「ほとんど」と敢えて断ったのは、彼の「指揮者」としての存在が、出て来る音にまったく影響を与えなかったわけではなかったからだ。真相を言うと、ある種の“効果”はあった。但し、それが肯定的な効果を発揮したかどうかということは、先を読み進んで判断して頂くしかない。トーマス氏が他の5人の演奏家の中央に出てきて共演者らの注意を集めたことによって起こった事とは、即興者たちの音楽的注意力の明らかな低下であった(もちろん、最初から「指揮」の効果を肯定してその場に居合わせた方々の多くは、そのようには捉えようとしないだろうが)。他の5人のメンバーは、トーマス氏の体の動きから、何らかの意図なり意味を読みとろうと注意を払うために、かえってその場で出てきている共演者の音への注意が低下した。それまでは、すべての演奏家が自分の耳で聞き、どんな音を出すかを判断するという自主的な努力があり、そのために(調和的であるが)高い緊張感を保った音楽が創りだされていたにも拘わらず、「指揮者」が眼前に現れたことにより、その意味ありげな動きから何かのサインを読みとろうと注意を払わざるをえない。そのために、かえって音楽は自主的な推進力を失い、散漫になった。出すべきでない音が終始出続け、間断なく動き続ける「指揮者」の腕の動きに注意を奪われた演奏者たちは、自分の耳を使わなくなった。

このようなわけで率直に言うと、恐らく「指揮者」付きの曲が最も凡庸な仕上がりになったのは私の耳には明らかだった。もちろん、そうした極めて困難(challenging)な状況の下でも音楽は、始まり終了した。くり返すようだが、そのような状況下でも全体の展開を決定していたのは、「指揮」の存在から大した影響も受けずに“独奏”的に自分のプレイを続けたdrummerの奥脇浩一郎の音楽的な起承転結のおかげである。そしてそれを知ってか知らずかその音楽的流れを尊重して、無意識に(と言うより受動的に)反応を続けたほかの奏者のために、音楽は始まることができ、必然的に終わることができたのだ。

決して、真ん中に現れた「指揮者」のおかげで音楽が、「まとまった」訳ではない。そこら辺は実際に音を出して音楽をやってきた人なら、明らかなことであろう。ただ、トーマス氏の体のムーヴメントが、それ自体美しく、しかも出てきている音楽と見事なシンクロをなしていたので、音を発する奏者と腕を振る「指揮者」のサイドのどちらがどちらに対して影響を与えていたのか、傍目で見て分からないかもしれないが、それが判別できないということ自体が、「指揮者」の打ち出した音楽でないことを証明しているのである。本来、奏者に影響を与えなければならない指揮者の動きというのは、実際に出ている音より常に一歩先を行っているのであり、そうでなければ、指揮者としては効力がないということは、楽団で演奏してきた奏者ならば誰でも知っていることなのであるから。

なぜ、チャーリー・トーマス氏は、今回このような試みを行ったのであろう。舞台裏を知らない私にとっては、それは謎である。西洋音楽の基礎トレーニング受けて、指揮法を学んだことがあるからか? それならば、西洋音楽が指揮をなぜ必要としたのかという基礎的な知識くらいはあるはずだろう。あるいは、即興を指揮することで自らの音楽を表現できると考えたからか? それならば、単に出てくる音に自分の動きをシンクロさせると言うこと以上の何かをしなかったのは、納得がいかない。それとも、即興に指揮は必要でないことを自ら証すためのデモンストレーションだったのか? それとも、奏者として、このグループにおける役割が小さかったからか? たしかにそう私に憶測させるようなおとなしい控えめな役割しか演じていなかった。これは、琵琶という楽器の特性や他の楽器との組合せに拠るものが大だとは思うが、このことだけが返す返すも私には残念だった。

私の憶測によれば、今回のこうした取り組みを示唆した人が、演奏者以外のどこかに存在したのだと思う。音楽の実践を積んでいない趣味人か、あるいは自己の何らかの「理論」か「仮説」を証明するための恰好の機会だったのか? いずれにしても、今回の「試み」を筆者のような見方で鑑賞した人がいたというのは動かしようがない事実である。そして、筆者が自ら演奏活動をする際に、指揮を採用するとしたら、それは筆者がこの日横浜で見たものをは全く違うものになるだろう。そして、違うものでなければ指揮を採用する意味がないのである。

まとめ(のようなもの)

こうしてみると、私のコメントが肯定的な面よりいかに否定的な側面が多いかということに自分でも驚くほどだ。しかし、このこと自体が私にとってとりわけ重要な意味を持っている。私がどんな意味でも平均的な聴取者の一人であるとは言えないという意見もあるかもしれない。あるいはその逆で、私が“彼らの世界”から見て所詮「アマチュア」でしかないせいかもしれない。筆者自身が音楽に関わっており、しかも即興に現在集中しているという事実。見たもの聴いたものをただ「感じる」ということではなく、その意味や原因を後から考え、それを積極的にアナライズしようという態度。その真偽はともかくも、その中からある条件的な真が演繹されるのではないかという予想。しかしその「発見」からは、個々の事物や出来事に対して何ら帰納的な憶測ができないという書くということのジレンマ...。

今回の即興のイベントに関してさえ、これまでに払われてきたのかもしれないグループの幾人かによる実験的な努力にしても、今回のグループの方法がどのような深遠なるセオリーによって裏付けられてきたのかも(そうでないのかも)私は知らない。豊かな「経験」に裏付けられた、恐らく筆者の想像も及ばないようなさまざまな「考え」なり「観念」の存在があるだろうと思う。それに対し、「考え」や「観念」とは違うものを扱っているんだと主張されても、コンサートを開催するにあたってプログラムを設定する時点で、やはりさまざまな言葉の交換があったはずであり、そうした言語の媒介なしに、どのようなイベントも起こすことはできなかったはずである。そしてどんなに否定しても一旦言葉に置き換えられたものは「観念」であり「考え」を映し出すものである。そして会話や対話や教えは概念の共有を図る努力である。もしそのような言葉の共有に根ざしたコミュニケーションに誤解が生じたり、(例えばコンサートの題名などに現れたような)意図せざるものが本番に発生したのだとすれば、それはそうした「考え」なり「観念」に曇りがあったためか、同じ概念の共有がうまく行かなかった証拠である。これは筆者自身も、自ら主宰するより小規模のコンサートでさえ頻繁に起こっていることである

即興を行うからといって、言葉や「考え」の機能や効果を過小評価することは欺瞞である。即興に限らず、どんなものでも、われわれの行為が「感じる」事に根ざしているなどということは、今さら言われるまでもなく、どんなに強調しても強調しすぎることはないだろう。しかし、それが言葉として語られたとき、どのような言葉で説明し、それがどの程度に誤解なく共有できたかを幾度も確認する努力の重要さも軽んじることはできない。

今回、私がこのような「評論」と紛うばかりの真面目な論述を試みたのは、実はほとんど初めての経験と言っても良い。そして始めにも言ったように、そのようなことをすることに付随して自分がリスクを負っていることも分かっているつもりである。しかし、感じたり、想像したりできるライブにおける聴衆の一人として、事態を「このように」も考えることができたのだ、ということをどうしても記述する誘惑に勝てなかった。間違いや思い込みもあろう。ここで書かれている多くのことは、私の想像するところのものであり舞台裏で起こったかもしれない事実を伝えるリポートでもない。いつの日か、この日に(そしてそれ以前の準備段階で)起こったことの真相を語ってくれる人が出てくることを私は待っている。どれほど私の考えが間違っており、勘違いでしかなかったのかを証して欲しいからである。

そして、どんな些細なことに関しても、ある論述を行うことに誤解は避けられない。これまでも、私の書いてきたことの多くが、“筆者が望むような形”で理解されていると思えないことがある。所詮読者の方々のそれぞれが、自分の思うような仕方でしか、記述されたことを捉えられないというのは宿命のようでもある(でも諦められない)。しかし、ここで書かれていることのほんの僅かな点でも立ち止まって感じていただけるのなら、それ以上のことを一体筆者が望めようか?

そして、“誤解”していただきたくないのは、この日、舞台に乗った出演者の方々に対して、何ら個人的に否定的感情も抱いていないということである。むしろ、各人の持っている奏する技能なり即興に対する真剣な態度やアプローチは、私にとって安心して受け容れられるものであったし、彼らのよくトレーニングされた安定的な技術に対しては、反感や嫉みより、むしろ共感を抱けるものであった。時間の許す限り、別の機会で別の形のパフォーマンスを見聴きしていきたいとこれまで以上に感じている。

そして、なによりも、私が、この日このような体験をできたことに、そしてそれを可能にするための労を惜しまなかった全ての人に、ここで謝意を表したい。冗長で退屈な文章におつき合いいただき、ありがとうございました。


© 2001 Archivelago
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