Good/Bad Books Bulletin
「最近こんな本を読んだ」「これはお薦め」「あれはダメ本、近寄るな」
などなど、本に関する情報。簡単書評。読了宣言。なんでも...
ジャンルは問わずに、どんどん書いて下さいな。
知の射程を拡げるための「本との出会い系サイト」


[109] コロニアリズム関係諸著 投稿者:entee 投稿日:2005/05/25 (Wed) 01:52 <HOME>
随分間が空いたが、とりあえずここ数ヶ月分の読了書籍。特に歴史観の更新(または強化)の端緒となるものを中心に。

■ エドワード・サイード著・大橋洋一訳「知識人とは何か」(平凡社)
季刊『前夜』関連で知るに至った思想家、サイードの1冊。サイードに関しては『オリエンタリズム』が有名だが、読むに至っておらず。ただ、本書に見られる彼の定義するところの「知識人」というのには、決定的な権力に対する批評精神が端的に現れている。
曰く、「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」。これほど力強く確信と信念に満ちた言葉を、多く知らない。これは、ソクラテス以来の「真実を突き止める知」が反権力的にならざるを得ない伝統を受け継ぐものである。

■ 吉田敏浩「ルポ 戦争協力拒否」(岩波新書)
戦争協力が一般の生活者に対してでなく、まず企業に求められ、企業に働く一人一人の「社員」が、企業の利益追求に無反省に追従することで、結果的にわれわれ一人一人が国家的犯罪、<戦争>の協力者(暴力加害者)になっていくという、メカニズムを実際の企業へのルポを通じて描く。反戦運動の闘いの現場は、ストリートにではなく、ひとりひとりの勤めている職場にある。ユニオンというのは、賃金ベースアップやリストラへの抵抗の拠点としてではなく、会社の要求が各自の良心にとって不条理である際の抵抗実践の場として機能する。

■ 本橋哲也「ポストコロニアリズム」(岩波新書)
ポストコロニアリズムという言葉自体の意味するところが分かりにくかったが、関連の思想家を渡り歩くことで全貌がつかめてきそうな分野。
われわれの住む世界が「植民地主義」とその後の歴史的延長線上に厳然としてあり、被支配者(植民地支配を受けた側)も支配者(植民宗主国の側)も、その歴史的・
思想的影響から抜け切ることは出来ない。まさに邪悪な(当時は当たり前だったにせよ)支配・被支配の関係やそれによって作られた「精神」というのは、克服されていない。

■ 高崎宗司「植民地朝鮮の日本人」(岩波新書)
これほど強烈な「新書」というのは滅多に出逢えるものではない。日本の朝鮮半島や満州に於ける植民地支配の歴史を「悪いことばかりではなかった」とかひどいものでは「植民地支配はなかった」というような主張が恥ずかしげもなく出てきて、あたかもそのような解釈も可能だと言わんばかりの自由主義史観がいよいよ席巻してきているかに見えるが、そうした幻想・自慰史観を一気に吹き飛ばしてくれるのが本書。これは、実際に朝鮮半島に出向いていったあらゆる種類の実在の人物(実名で)が、当時何を見聞きし、何を考え、また何を理想として行動していたのかというのを、当時から残されている新聞や雑誌、といった資料をひたすら紹介する。仮に「南京大虐殺の写真がすべて偽物であった」としても、揺るぐことのない一級の言葉による歴史証言である。
そもそも、なぜ明治に二つの戦争(日清・日露)があったのか、われわれの世代は分かっているのであろうか? ずばり、それは朝鮮半島を巡る覇権争いである。奪い取ろうとしている、あるいは一度確立した既得権をまもるために朝鮮半島に渡った日本人たちが率先して行ったのである。そのあたりの経緯は瑞々しく描かれている。推薦。

[106] 季刊『前夜』が創刊 投稿者:entee 投稿日:2004/11/13 (Sat) 21:57 <HOME>
これは「本」ではない。

10月に「文化と抵抗」をテーマとする『前夜』という「抵抗文芸」雑誌が創刊した。自分は、運良く創刊に先立つ「プレ・イベント」というのに出る機会があり、彼らの「前夜宣言」を目撃していたし、高橋哲哉氏や徐京植(ソ・キョンシク)氏を初めとする執筆者や編集部の人たちの話を聞いて心底共感していたので、ぜひ何らかの形でこのグループを支持(サポート)したいと思っていた。いろいろなサポートの仕方があるのだが、「財政上」の問題で、とりあえずは向こう3年分の『前夜』を購読できるという、リーダーズ(読書会員)というのになった。
http://www1.jca.apc.org/zenya/top.html#bosyu

さっそく創刊号が送られてきたが、じっくり腰を据えて読もうと思わせるような実に深い内容の抵抗者達のエッセイで満ちている。

http://www1.jca.apc.org/zenya/kikan/index.html

「前夜」に連なる発言者は、今という時代が、ぜんぜん別の意味で「もはや戦後ではない」と感じている点で共通している。つまり、われわれはすでに「戦前」あるいは「戦中」を生きているのだという、せっぱ詰まった歴史認識である。同グループは、最後まで言論を武器にしようという点で決意は固いが、言論が容易に世界を変えることが出来ると信じる楽観的なひとも無論いない。すべての論者にはディレンマがある。これからの時代、こうしなさいとかこうすればいい、というような善悪を一刀両断に出来るような安直で分かりやすい答はここにもない。だが、この時代はすでに、おかしな事を「おかしい」と指摘するだけでも、相当の勇気を要する。ここで、自分の立場を明確にし、闘う意思があることを表明することは、暴力に訴える人々に対して、少なからぬブレーキになるはずである。

雑誌の創刊ということがどれだけの「効力」を発揮するのか、ということを簡単に明言する人も、創刊者の中にさえいないだろう。だが、彼らの悲痛な言葉と、無関係を決め込む大多数の人々に、少しでも言葉を届かせようと、彼らは叫び始めているのだ。

3ヶ月に1号のペースだが、読み応えは十分だし、それよりも、これを購読して、時流への抵抗者達に賛同の意を表明すること自体にも意味はあると思う。

創刊プレ集会に「抵抗の歌」の選曲者として登場したバラカン・ピーターさんの選曲と、その時のバラカンさんの話も今回の創刊号に収録されている。これはバラカンさんの人柄や音楽的嗜好に共鳴する人とって、集会にいなかったなら一層のこと、一読の価値がある読み物になっている。

[Home]アイコンをクリックするとNPO前夜のトップページに:

[105] ヨーゼフ・ロート著『聖なる酔っぱらいの伝説』 投稿者:entee 投稿日:2004/10/26 (Tue) 00:05
池内紀 訳(白水社)

同名の映画を観て十年ほど経ち、たまたま思い出して友人にそれを言及したら、彼はそのビデオを探して見つからず、代わりに原作を読んだという話を聞いた。そして原作に感動したとも。そして映画の原作者のロートを知った。間もなく私もアマゾンで探したが、在庫がなかったので中古を入手した。同時に入手した『放浪のユダヤ人』を最近読了してロートの経歴や、彼の生前の時代背景を知った上で本書を読んだ。映画で知っていたはずのその世界はまったく違ったものとして、今度は迫ってくる。

同書に収められている短編2作も良い。特に、「皇帝の胸像」は、もはや私には小説であると考えることは出来ない。これは、第一次大戦が終わり、民族国家が勃興し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体され、国境線が引き直されたために「異邦人」ないし「放浪の○○人」となってしまった多くの人々にとっての、そしてロート自身にとってのノスタルジア(望郷の念)と身に降りかかる不条理に対する諧謔の入り交じった悲しいストーリーである。

これを読んで、領土拡大をした旧帝国日本とその解体後に、「国境線」が変更されたために、日本において「異邦人」として取り残された在日朝鮮人たちに起きた不条理を思い起こさせる、と言ったら、私は何か勘違いしていることになるのであろうか?

(↓なぜか、これは書籍ではなく、DVDソフトへのリンク)
http://store.nttx.co.jp/_II_D110485677?LID=egoodvd&FMID=egoo

[104] ヨーゼフ・ロートを語る[2] 投稿者:entee 投稿日:2004/10/21 (Thu) 01:16
下の『放浪のユダヤ人』というエッセイ集の中の、中編「反キリスト者」という文章に触発されて。

一般的な「書評」というような域を超えているかもしれないが、ひとつの本というものが、これだけ「書く」ことの端緒となるのは、実に嬉しい。善い本ほど自分にはものを書かせてくれるのだ。今回は、その力にまだ疑いを持っているblogの方ではなく、「衒学者の回廊 2004」の方にアップしてみた。

http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2004/joseph_roth2.html

[103] ヨーゼフ・ロートを語る[1] 投稿者:entee 投稿日:2004/10/20 (Wed) 00:17
妙なblogを立ち上げて現在実験中なのだが、そちらの方に現在読み終えつつある『放浪のユダヤ人』についての文章をアップしてみた。

『放浪のユダヤ人』は、オルミ監督の『聖なる酔っぱらいの伝説』という傑作映画の原作者、ヨーゼフ・ロートによる論文集である。なんとも不思議な縁で著者の存在を知ったのである。あまりの深遠さに圧倒されて拙文を書いた。引用したい場所も無数にあるので、この本1冊だけでも相当の文章が書けそうな勢いなのである。

http://blog.archivelago.com/

興味のある方は、↑をどうぞ見て下さい。

[102] 乱読と読了を羅列 投稿者:entee 投稿日:2004/10/09 (Sat) 01:07 <HOME>
読了していてもまとめたりするヒマもなく“チェーン・リーディング”しているために言及することもできなかった書籍一覧:

■ 読了
『「正しい戦争」は本当にあるのか』藤原帰一(rockin'on)
心情的には「ない」と言いたいのだろうが、「ない」と断定することに失敗しているような印象があった。それだけ難しい課題があるのはとうぜん了解しているが、もう一つ強烈な思想的なブレイクスルーを!と期待したのは、私のお門違いだったのかも。ターゲットにしている読者セグメントと自分自身の不一致は確かにある。ちょっと厳しい意見かもしれないが、これよりはいわゆるフジ産経系の敵方論理に触れて、どうやって論破するかを考える方が自分のためになったような気もする。『いま、歴史問題にどう取り組むか』における共著者のひとりとしての藤原氏の方が、正直勉強になった。寛容にも貸し出してくれたIqueguami氏にはもちろん感謝!

『最終戦争論』(中公文庫)石原莞爾
近々国家という枠組みを破壊する最終戦争が起こり(とくに日米戦争待望を感じさせる予言)、恒久的な平和な世界になるという太平洋戦争前の戦争史研究とその大胆な結論。満州事変を起こした首謀者・陸軍参謀。彼の予言の一部は当たり、一部はあとで撤回を余儀なくさせたが、こうした戦争待望がプロの軍人によってまじめに成されていたこと自体に戦慄を覚える。これも大いに論じるに値する材料を提供する。

『文部省著作 新しい憲法のはなし・民主主義』「新しい憲法のはなし・民主主義」企画・編集委員会編【前文】小森陽一(展望社)
8.15集会で見かけ、きちんと帯を読まないで小森氏の著作だと早とちりして購入したが、左に非ず。彼が書いているのは前書きのみ。だが、怪我の功名と言うべきか、その内容は、戦後まもなく社会科教科書として発行され学校教材として生徒たちに広く読まれた。正真正銘の文部省の本。これは「新しい憲法のはなし」と「民主主義」という二つの教科書の復刻版である。そのこれは読めば読むほど衝撃的な本。三権分立は何故重要なのかというような基本的な社会制度理念から再度復習するのには最適。文部省の役人や政治家は全員これを熟読して「民主主義の精神」をもう一度勉強して出直して欲しい、とか思った。

『反・哲学入門』高橋哲哉(発行: 白澤社/発売: 現代書館)
後半辺りから、真新しいことが出てくる。読んだ甲斐ありの感を強めるのは後半以降かも。

『平和と平等をあきらめない』高橋哲哉×斎藤貴男(晶文社)
あいかわらず穏やかな語り口のややアカデミックな高橋氏と「底辺叩き上げ」を感じさせる熱く怒る斎藤氏との対談形式。対照的な二人が同じ理想と将来への不安を共有する。これは、とても興奮を呼ぶ内容。思わず一気に読んでしまう吸引力がある。いろいろ引用して論じたいことも多いが、ここでは割愛。

■ 現在進行中
ヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』『放浪のユダヤ人』
的場昭弘『マルクスを再読する』
ゲバラ『モーターサイクル南米旅行日記』
吉田裕『日本の軍隊─兵士たちの近代史』

[100] 森岡正博 著『無痛文明論』(トランスビュー)徹底批判 投稿者:entee 投稿日:2004/09/30 (Thu) 00:30 <HOME>
「悪書の典型」みたいなものに、縁あって接する。『無痛文明論』というふざけた本。

一旦、無視しようとも真剣に考えたのだが、その「縁」を最大限受け止めて、真剣に書いてみた。これについてはこのBulletinに書こうと思って書き始めたのだが、あまりに長くなったので「回廊」の方にアップした。

この文章を読んで刺激され、却って「読んでみようかナ」などと言う気をおこす人もなかにはいるかも知れないが、最初にお金と時間の無駄だと言っておこう。単に、近付いても無駄だよという意味で、書いておきます。

「文明論」なら森本哲郎の60-70年代に書いた一連エッセイや読みやすい論考の方が遥かにわれわれの文明を客観視するのに役に立つと思います。

http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2004/mutuu_bunmei_hihan.html

[99] 「世界はもつと豊かだし、人はもっと優しい」 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2004/09/19 (Sun) 01:05
森達也 著(晶文社 刊)
著者はドキュメンタリイ映画「A」「A2」の監督。
両作品に纏わるエピソードや、アメリカと、レバノン、シリアでの上映の際の顛末などを中心としたエッセイ集。前半は幼年期の回想や転職を繰り返して現在に至る経緯など、自伝的要素が濃く、森ファンにとっては愉しい。

本書を読んで特によかったと思った事柄は二つあって、一つは
2章「ドキュメンタリーの理由」の中の放送禁止歌(正しくは「要注意歌謡曲」というのだそう)について。
「放送禁止歌」の唯一無比の根拠とされていた『要注意歌謡曲指定制度』には、そもそも拘束力はまったくない。あくまでもメディア各局の自主判断のための基準でしかない」のだそうだ。

ここで挙げられているその代表的な楽曲というのは、
高田渡「自衛隊に入ろう」
泉谷しげる「戦争小唄」
頭脳警察「赤軍兵士の歌」
フォーク・クルセイダーズ「イムジン河」
岡林信康「くそくらえ節」
南大阪べ平連「栄ちゃんのバラード」
山平和彦「放送禁止歌」。歌詞も掲載されてあるのは
岡林信康「手紙」
京都地方民謡「竹田の子守唄」。

こうした歌の数々は、仲間や同士の間で歌い継がれてゆくものなのかもしれない。これらのほとんどを私は知らない(歌手名、曲名は聞いたことあるけど)。でも最後の子守唄は知ってる。大好きだもの。京都地方民謡だとは知らなかった。

“World Sings Goodnight”という世界33民族の子守唄を纂めたCDがあって、ニューエイジ・ヒーリングものではあるが今でも愛聴している。この中で日本のララバイとして唯一だけ採用されているのが「竹田の子守唄」(歌い手はNanweiChinSu)。本書を読んで後このCDのリーフレットを改めて読み直してしまった。

もう一つ、3章で取り上げられている、大正12年千葉県福田村で起こった事件。関東大震災の後に流布されたデマによって、現在の曳舟のあたりだったか、地域住民が在日朝鮮人を虐殺、その渦中で、アナーキストの大杉栄と伊藤野枝たちも惨殺されたという事件を想起した。ものすごい不条理。・・・つくづく思ったことは、現在の自分の中の「地域住民」と「非・それ」について、
改めて問い直しをすることだ。

[80] 年金大崩壊 岩瀬達哉(講談社) 投稿者:窒素ラヂカル 投稿日:2004/06/09 (Wed) 23:02
 ここへは初登場です。現国会は年金法案が最重要とされながら、中味の審議はなおざり、閣僚・議員の未納・未加入ばかりがクローズアップされ、最後は質問打ち切りの強硬策で法案は成立した。
 しかしことの本質は、年金制度が「官僚の、官僚による、官僚のための制度」として運営され蝕まれているということである。その病根にメスを入れることなく、官僚による恣意的な数字遊びによって、負担だけが国民に押しつけられた。民主党が年金一元化を目指す制度案を作ろうとしても、肝心の数字を官僚達は明らかにしない。
 年金専門のジャーナリストによる本書は、年金資金にたかる「シロアリ」たちの姿を白日の下にされけ出す。読んでいてこれほど腹の立つ本はない。戦前に始まった年金制度が、厚生官僚にとってどういう存在であったかを如実に示す官僚自身の証言が残されている。これこそが年金問題の本質であると思われるので、少し長いが引用する。証言者は戦前の厚生年金保健課長で、厚生年金の前身、労働者年金保険法を起案した花澤武夫氏、「厚生年金保険の歴史を回顧する座談会」(86.4-87.3まで9回にわたる)での発言である。
「いよいよこの法律ができるということになった時、すぐに考えたのは、この膨大な資金の運用ですね。(掛け金は)何十兆円もあるから、一流の銀行だってかなわない。これを厚生年金保険基金とか財団とかいうものを作って、その理事長というのは、日銀総裁ぐらいの力がある。そうすると、厚生省の連中がOBになった時の勤め口に困らない。何千人だって大丈夫だ。」
「この資金を握ること、それから、その次に、年金を支給するには20年もかかるのだから、その間、なにもしないで待っているという馬鹿馬鹿しいことをいっていたら間に合わない。戦争中でもなんでもすぐに福祉施設でもやらなければならない。
 そのためにはすぐに団体を作って、政府のやる福祉施設を肩代わりする。・・・そして年金保険の掛け金を直接持ってきて運営すれば、年金を払うのは先のことだから、今の内、どんどん使ってしまっても構わない。使ってしまったら先行き困るのではないかという声もあったけれども、そんなことは問題でない。・・・早いうちに使ってしまった方が得する。
 20年先まで大事に持っていても貨幣価値が下がってしまう。だからどんどん運用して活用した方がいい。何しろ集まる金が雪だるまみたいにどんどん大きくなって、将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課式にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ。」
 年金制度を国民のために運用するという考えは全くなく、自分たちの現役時及び退職後のためにどう使うかだけを考えている官僚の本音があからさまに語られている。実際に彼らがどんな悪事を働いてきたかを知らないでも、これを読んだだけで腹が立たない人はいないだろう。
 官僚は「少子高齢化」にすべての責任を押しつけ、負担を増やし給付を減らさなければ年金は崩壊すると脅しをかけて作ったものが今回の法案であった。政府・与党はその官僚の言い分を鵜呑みにして、肝心のシロアリ対策は全く採らなかった。しかも優遇されている議員年金と、年間1兆円もの余分の税金を投入している公務員のための共済年金の改革は行わなかった。国民は徹底的に馬鹿にされているのである。これほど馬鹿にされながら、なお小泉内閣の支持率が40%台であることの不思議さ。全くおめでたい国民じゃのう。

[Res: 80] Re: 年金大崩壊 岩瀬達哉(講談社) 投稿者:entee 投稿日:2004/06/11 (Fri) 22:02
「本との出会い系サイト」へ、ようこそ。
さっそくかなり刺激的な本の紹介、有り難うございます。ちょっと上を読んだだけで、相当ハラワタが煮えくり返りますが、今度そちらに寄ったときは是非借りていきたいと思います。こちらも、以前言及した本をお持ちしようと思います。

この年金問題に限らずですが、こういう不条理を見聞きしたときに、一体、誰に、どのように、われわれの怒りを伝えればいいのでしょう? 選挙を通してですか? 何かそれ以外に効果的な意思伝達はできないのでしょうか? 自分で考えることかも知れませんが、何か考えがあれば教えていただきたいところです。

これからも、われわれ若い世代が手に取るべき本の数々を、教えていただければ幸いです。

[Res: 80] 書名について(ところで...) 投稿者:entee 投稿日:2004/06/17 (Thu) 17:42
『年金大崩壊』を読み始めています。途中ですが、ふと思ったことです。「余計なお世話」かも知れませんが、題名の『年金大崩壊』というのは、ちょっと潜在購買層をミスリードするのではないかという気がしています。「そもそも年金は健全なる運営をされていたなら、年金官僚や族議員が過剰に警告を発するほど危機に瀕してもいなかったはずだ。掛け金は盗まれているのだ」というのが著者の論旨だと感じるので、「大崩壊」という表現は、掛け金の引き上げや給付の延期などに正当な理由を与えたい年金担当官僚のレトリックに支持を与えるものとも読めてしまう気がしたのです。もちろん、衝撃を与えるという意味では、アイ・キャッチングな題を付けるのは、よく理解できるのですが、ちょっと内容と合致していないような気がするのです。

どうせなら
『仕組まれた年金大崩壊』
〜厚生年金の掛け金に群がる“シロアリ”年金担当官僚の実体
みたいな題だと、本書の内容をより反映できるのではと思ったりしました(まるで週刊誌やタブロイド紙のヘッドラインみたいだけど)。

[Res: 80] Re: 年金大崩壊 岩瀬達哉(講談社) 投稿者:entee 投稿日:2004/08/13 (Fri) 23:00 <HOME>
ここで書いても良かったんだが、読了後の勢いで一筆した。
http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2004/nusumareteiru.html

こちらをご覧下さい。

[77] 『反戦の手紙』ティツィアーノ・テルツァーニ 著 投稿者:entee 投稿日:2004/06/03 (Thu) 23:00 <HOME>
飯田亮介 訳 WAVE出版

もうずいぶん経ってしまったが、ウェブを徘徊していたら、偶然本著の翻訳者のホームページに行き当たり、テルツァーニの「日本のわが友へ、」という序文を見つけた。おだやかながらも、つよい求心力を感じさせる著者の序文は、いったん読み始めたら、最後まで読み止めることができないほどのものであり、心を根底から揺さぶられた。

そして、ほとんど間髪を入れずに注文していた。本を入手し、本格的に読み始めると、ネット上の序文に行き当たった自分が実に幸運であったと心から信じることが出来た。

ページを繰るごとに、こころの琴線に直接触れてくるその語り口調は、電車に乗って読んでいても、目頭が熱くなり、そこら中の人に、朗読して聞かせてしまいたいような衝動にさえ駆られた。普段から携行したいような本だ。この感動を忘れないように。

右上端の「Home」アイコンは、飯田氏のホームページへのリンク

[Res: 77] ■■■『反戦の手紙』テルツァーニ死去■■■ 投稿者:entee 投稿日:2004/07/30 (Fri) 12:21
「反戦伝道師」テルツァーニの訃報
http://www.yorozubp.com/0407/040730.htm
■■■ 実に残念。
(らも氏の訃報もショックだったが、これも追い打ち)
勇気を得るために「反戦の手紙」を読みましょう。
感動の文章です。

[Res: 77] Re: 『反戦の手紙』ティツィアーノ・テルツァーニ 著 投稿者:飯田亮介 投稿日:2004/08/06 (Fri) 07:42 <HOME>
「反戦の手紙」ご紹介ありがとうございます。
Googleで「反戦の手紙」を検索してたどり着きました。
何とかして、多くの人に読んでもらいたいものです。
少しでもテルツァーニの遺志が生かされるように。

テルツァーニ追悼ページを開設しました。彼の友人たちの追悼文を中心に
訳文を随時追加して行く予定です。
本当であれば、彼の最後の作品の翻訳作業に入りたいのですが、大部であることと出版社探しが困難であることから、とりあえず、テルツァーニという人間について語ってくれる友人たちの言葉に頼ることにしました。

以下にリンクを記します。
http://www.ryosukal.com/tt/addio/index.htm

よろしくお願いいたします。

[Res: 77] 投稿ありがとうございます 投稿者:entee 投稿日:2004/08/07 (Sat) 16:49 <HOME>
(おお、なんとなんと! 翻訳の方が来てしまいました。)

飯田さん、投稿とお知らせ、ありがとうございます。
テルツァーニ氏の訃報に接したときは、「来るときが来てしまったのか」と嘆いてしまいました。でも、リンク先の「友人たちの言葉」を読んでいたら、死んでも生き続けるということはあるんだ、と改めて気付かされます。

テルツァーニ氏の言葉を広めるために自分にできることはないか、と考えています。内容の素晴らしさと、この時代にあちこちで起こり始めている非戦・反戦運動の動きを見ていると、出版社探しが困難であるというのは、にわかには信じられないような感じです。でも、それが仰るように現実なのでしょうね。

イタリア語はまったく分からないので、私は無力です。せめて英語であったら力になれると思うんですが。でも、そんなことをつらつら考えていたら、自分でも出来ることはどこかにあると思ったりもしたのでした。

[83] 入江曜子著 教科書が危ない 投稿者:窒素ラヂカル 投稿日:2004/07/04 (Sun) 22:56
入江曜子著 教科書が危ない ―「心のノート」と公民・歴史― 岩波新書886、2004.4.20
 
この本は、憲法と教育基本法を支柱とする民主主義が、かぎりなく戦前のナショナリズムに近い

ものに置き換えられようとしている、それはまるでメビウスの輪のように、表にいると思っていた

人がいつのまにか裏にいることになるという危機感に基づいて書かれている。
 第一章は「新しい教科書を作る会」の「新しい公民教科書」を、第二章は、同会の「新しい歴史

教科書」を批判的に取り上げている。これらの教科書については、その発行時にマスコミでも大き

く取り上げられ、賛否両論が戦わされたので、多くの人がその存在もおおよその内容も知っている

だろう。しかし第三章で取り上げられている「心のノート」の存在は、マスコミで報道されること

も稀で、教育関係者以外にはほとんど知られていないだろう。
 筆者もこの本で初めて知って愕然としたものである。これは2002年4月、全国の小中学生を対象

として文部科学省から突如天下ってきた教科書である。11億円という税金を使って作成されたこの

教材「心のノート」は、検定や採択という手続きを経ないで無料配布された。同時に教師用の指導

資料、「『心のノート』を生かした道徳教育の展開」なども発行された。
 大人の常識から著しく逸脱した子供の犯罪の続発から、子供達への道徳教育、人生教育の必要性

を多くの人が感じているであろう時代に、一見時宜を得たもののように感じられる。しかし発行者

の意図は「『心のノート』を通して日本中の子供達と意見を交換し、心を通わせる」所にある。「

このノートはあなたのたからもの。あなたにぴったりのすてきな名前を付けましょう。」「このノ

ートはあなたの心の自由帳」などと、国が直接子供達に「あなた」と呼びかけ、国が期待する鋳型

にはめこむにはもってこいの巧妙な仕掛けである。
 かつての修身とその流れをくむ道徳の副読本は、徳目を教えるに当たって、創話の形をとるのが

普通であった。しかし今回の『心のノート』は、そのワンクッションも外してしまって、「あなた

」と直接に子供に話しかけ、教え、ヒントを与え、指定された空欄に書き込ませるという、今まで

やったことがない形式をとっている。
 「ありがとう」っていえますか、という問いかけの下に、信号の色をイメージするグリーンとオ

レンジの「はい」「いいえ」の二つのボタンが並ぶページがある。そこには、質問に答えて「この

ボタンに軽く触れて下さい」という指示がある。もちろん「はい」と答えた子供にはさらに進んで

いくための励ましの言葉が贈られる。『「いいえ」と答えた人は、あらためて自分の周りを見回し

てみて、ときどきこのページを開いてボタンとにらめっこしてみよう。迷っている人は、その理由

を考えてみよう。あなたの心には、必ず「はい」のボタンにふれようとする「あなた」がいます。


 まさに子供のマインドコントロールをすることに国家が直接乗り出したといえるだろう。批判を

封じ、与えられたヒントに従って肯定的に考えることだけに慣らされた「よい子」達は、国家にと

って実に御しやすい「よい国民」になるだろう。上の「ありがとう」の代わりに、例えば「お国の

ために命を投げ出すことができますか」という問いかけを入れてみたらいいだろう。
 参議院選挙が終わると、3年くらい選挙はないとされる。恐らくその期間に、教育基本法と憲法

改正が日程に上ってくるだろう。ある意図を持って国民を一つの方向に引っ張っていくためには、

教育界の支配は権力にとっては必須条件である。今回の「心のノート」配布は、教育基本法改正に

先立つ「心の支配」への重要な第一歩であるに違いない。それも国民の目にほとんど触れない形で

の。

[Res: 83] Re: 入江曜子著 教科書が危ない 投稿者:entee 投稿日:2004/07/05 (Mon) 16:30 <HOME>
「心のノート」に関しては、先日土曜日に参加した“『前夜』創刊 プレ対話集会”で、発言者のひとりとして出演した三宅晶子氏も、それについての憂慮を表明しておられました。やはり岩波から同様のブックレットが出ているようです。「心のノート」自体をまず自分で入手したいところ。

「プレ対話集会」については、「前夜をその前夜にしないために」
http://www.archivelago.com/Cgi-bin/enmemo/index.html
にやや詳しく書いておきました。

[Home]マークのリンク先は「前夜」のウェブサイトです。
ぜひ、一度ご覧下さい。

[Res: 83] Re: 入江曜子著 教科書が危ない 投稿者:石川初 投稿日:2004/08/02 (Mon) 17:26
関連する本として:

■小沢牧子、中島浩籌「心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う」洋泉社新書y
教育の現場にまで普及しつつある「カウンセリング」の現状について、特にその「心理学的権力作用」が、「予防的視点」を持ち始めていることについて、警鐘を鳴らしています。もともと国家権力に利用されやすい性格を持っている「心理学」という分野が、その「専門職能の体系」の存続と繁栄のために「国による国民の心理管理政策」をロビイングしたのだ、という「告発」もあります。

■斎藤環「心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか」PHPエディターズグループ
自身、臨床心理学者でもある著者が、近年の「心理学的なもの」の隆盛に疑問を投げかけた本。
犯罪動機の理由付けから、犯罪被害者、被災者、社会不適合者の「心のケア」、「トラウマ」物語のブーム、「癒し」の流行など、社会の「心理学化」は日本だけでなく、80年代以降に先進国で共通して(特に米国で先行して)見られる社会現象であると言います。ことに、最近ではそうした還元が「脳のしくみ」へと「退行している」という指摘は興味深い。

人間の理解を「心理」へ還元するということが一種の「大衆文化」として普及する、こういう風潮には、血液型性格判断や、普及版占星術などと同様、「知的負荷の少ない世界理解」への渇望を感じますし、個人と社会のコンフリクトが起きたとき、そこで起きている問題を個人の「心理」問題へすり替えて「癒す」ことは、社会の問題そのものを見えなくすると同時に、社会体制への批判的な視点をつみ取る権力作用に他ならない、というのは、窒素ラジカル氏のご指摘の通りです。

■東浩紀、大澤真幸「自由を考える―9・11以降の現代思想」NHKブックス
著者は、近年の権力が、ことにテロリズムへの恐怖が先進国を覆って以来、従来の「規律訓練型」から、より巧妙な「環境管理型」の秩序維持へと急速に変化していると言います。そこに「心理学的知見」の応用が見えます。

■五十嵐太郎「過防備都市」中公新書ラクレ
このような権力作用の変化が、都市や建築の様相をも変えつつある、という建築評論家によるレポート。


[Res: 83] Re:「心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う」 投稿者:entee 投稿日:2004/08/02 (Mon) 18:31
久しぶりの登場ですが、実に感謝します。Welcome back! なかなか重いヤツを紹介してくれましたね、石川さん!

<< もともと国家権力に利用されやすい性格を持っている「心理学」という分野が、その「専門職能の体系」の存続と繁栄のために「国による国民の心理管理政策」をロビイングしたのだ、という「告発」もあります。>>

う〜む。これは、恐ろしいことですが、想像に難くない出来事だと思います。ある種の学問が、われわれの「より良い生」のため、ではなく、「自己貢献」的に、自身が生き延びるための体系に堕して存続を図ろうとしていると言う事実。そればかりか、こうした学問が、より危険な世界を招来しうる、ということですね。

ロビイストばかりか、いまや、文部科学省の文化庁長官が河合隼雄であったりするわけですよ。ユング心理学の紹介者としては重要な役割を担ったのかも知れませんが、彼が「心のノート」を監修しているというのは、「どうかと思います」よね。

[Res: 83] 「心のノート」関連サイト 投稿者:entee 投稿日:2004/08/02 (Mon) 18:39
こういうのが見つかりました。
分かりやすくまとめられてますね。
参考までに。
http://www.tabemonotuushin.co.jp/hibiki393.htm

[88] 『世間の目 なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか』 投稿者:窒素ラヂカル 投稿日:2004/07/26 (Mon) 17:03
佐藤直樹 『世間の目 なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか』、光文社(04.04.30)

 世に「世間学」という学問があることをこの本で初めて知った。刑法学者である著者は、99年「日本世間学会」創立に初代代表幹事として参画している。
「世間」の構成原理の一つに「贈与・互酬の関係」があるという。お中元、お歳暮を初め、バレンタインデー、ホワイトデー、旅行のおみやげ、お年玉など枚挙にいとまがないほどの贈り物のやりとりがある。このような贈与・互酬の関係は、ヨーロッパを含めて古い時代には、世界のどの地域でも行われていたという。
ところがヨーロッパではこの贈与・互酬の慣行が、キリスト教の浸透によって11,12世紀頃捨て去られた。すなわち晩餐の席を設ける場合に、友人、兄弟、親族、金持ちの隣人は、後でお返しを受けることになるから呼ぶべきではない。むしろお返しのできない貧しい人、鱈だの不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くべきだと聖書は教えている。この頃から「世間」にとってかわって「社会」が出来上がっていったという。
二つ目の「世間」の原理は、目上・目下、先輩・後輩などの身分序列が重要視されるということである。昔習った英会話の先生(米人)が言っていた。日本語は非常にverticalな性格を持っているが、英語などはhorizontalであると。日本では自分を指す言葉、相手を指す言葉が沢山あってそれらをTPOで適切に使い分けなければならない。その上尊敬語、謙譲語、丁寧語など、膨大な敬語を使い分ける。
三つ目の原理は、「世間」には個人は存在しないということである。西欧では「個人」ができてから800年くらいの歴史がある。それができるに当たって大きな役割を果たしたのがキリスト教の「告解」という制度であった。神の前で告白をするというこの手続きによって個人が形成されることになった。日本の個人は1884年頃、individualを翻訳して輸入したものであるし、societyも社会と翻訳して取り込まれた。従って西欧のindividual・societyと、日本の個人・社会と内実は大きく違うという。日本に存在するのは「世間」であって、そこには社会も個人も存在しない。
著者は具体的に「臓器移植」「いじめ」「過労自殺」「少年犯罪」「マスコミ報道」「ネット・コミュニティ」などの中に、世間の百態を見て取り、鮮やかに解釈してみせる。一々思い当たることばかりである。
「世間体を恥じて」自ら命を絶つ人、大食品メーカーの不正を告発したばかりに、「世間」から取引を断られ、倒産に追い込まれた小メーカーの社長、イラク人質事件の被害者への「世間」からのバッシングによって、「世間に顔向けできなくなった」人、日本の会議での「空気」に逆らえない雰囲気などなど。そういえば最近よく目にする、テレビカメラの前で数人が雁首そろえて頭を下げるときに発せられる言葉は、「自分が悪うございました」ではなく、「世間をお騒がせいたしまして」というせりふだったよなあ。
善悪は別にして、日本の社会を動かしている原理、日本人の行動への新しい視点を提供してくれる本である。

[87] 『いま、歴史問題にどう取り組むか』 投稿者:entee 投稿日:2004/07/13 (Tue) 13:27
船橋洋一編・藤原帰一他、共著(岩波)

IqueGuamiさんの薦めで藤原帰一に興味を持ち、最初に手にした本がこれ。あえて共著にしたのは、“芋づる式”に関連の研究・主張をしている著者を知ることができると期待したこと。私のように歴史問題の基本を知らない者にとっては、これは実に勉強になる。藤原帰一をはじめとして、荒井信一、近藤孝弘など、どの著者の文章も実に明確で分かりやすい。そして自分の無知の程度を突きつけてくる。これはこの問題について自分は知らないことがあるんじゃないかと思っている人には、絶対お薦め。これは読了。

[86] 現在読んでいる本 投稿者:entee 投稿日:2004/07/13 (Tue) 13:26
平行して(しかもどんな状況でも)読むというアクロバティック読書中。

メインは、徐京植(ソ・キョンシク)の『秤にかけてはならない――日朝問題を考える座標軸』(影書房)。「前夜プレ対話集会」での氏の話を聞いて、一体どういう人物だろうと興味を持ったので、プレ集会の会場の販売コーナーでさっそく購入。内容は非常に重いが、知的な刺激を受ける(こういう寸評も実に軽くて自分でも嫌だが)。こういう人の「自分の来歴」を聞くだけで、なぜ「日の丸・君が代の法制化」が拙いのか、なぜ歴史問題はぜんぜん終わっていないのか、などなどがイッパツで分かる。こういう不幸な方々の出現を許した戦前戦中戦後の日本の政策は、もちろん糾弾されるべきであるが、現在も事態はほぼ変わっていない(どころか悪くなっている)という事態は、まったくもって「われわれの国の恥」とすべきことなのである。実は、内田樹も批判のやり玉のひとりに挙がっていて、ちょっと驚くが、読めばなるほどと思う面がある。自由主義史観を批判的に論じていたので、内田樹と対立する部分がありうるのかと一瞬目を疑ったが、現実は一筋縄ではいかぬ。これについては自分なりにいずれまとめたいところ。

これを読んでいたら、趙博(チョウ・バク)さんの『ぼくは在日関西人』を無性に読みたくなってまた読み始めた(3度目)。すぐに読み終えられるので、そしたらすぐに『秤にかけてはならない』に戻る予定。

『知識人とは何か』エドワード・W・サイード(平凡社)
徐京植を読んでいたら出てきた。まだ拾い読み段階だが、かなり重要そうな本。つねに「テロリスト」のレッテルを貼られて批判される側であるパレスチナ出身のインテリである。彼がどのようにして「西側」のメディアにデビューしたのかという「自分の来歴」にやはり触れている。

[85] 「茶色の朝」 投稿者:窒素ラヂカル 投稿日:2004/07/06 (Tue) 22:53
フランク・パブロフ 著 ヴィンセント・ギャロ 絵
高橋哲哉 メッセージ 藤本一勇 訳 大月書店 本体価格1,000円

 陽の光が降り注ぐ小酒場で足を伸ばしながら、「俺」とシャルリーは、コーヒーをゆっくり味わい、時の流れに身を委ねていた。シャルリーが犬を安楽死させなければならなかったと言ったときはさすがに驚いたが、ただそれだけだ。茶色の猫以外は飼ってはいけないと言う「ペット特措法」が成立した後、俺も白黒ブチの飼い猫に、街の自警団が配布した毒入り団子を食べさせて「安楽死」させたのだから。
 それからしばらくして、俺はシャルリーが毎日読んでいた『街の日常』が廃刊になったことを報せた。「あの新聞が今回の新しい法律をたたかない日はなかったからね」と俺。シャルリーは腰を抜かした。
 そして今度は図書館の本の番だった。『街の日常』の系列出版社が次々と裁判にかけられ、そこの書籍は全部、図書館や本屋から強制撤去を命じられた。
 それからは用心のために、言葉や単語に茶色を付け加える習慣になってしまった。そのうちに茶色に染まることにも違和感を感じなくなった。そのうちにシャルリーは茶色の犬を、俺は茶色の猫を飼った。「茶色に守られた安心、それも悪くない。」
 そして昨日信じられないことが起こった。日曜はシャルリーの所でトランプをすることになっていた。1パックのビールを持って彼の家に着いたらたまげた。彼のアパートのドアが茶色に身を包んだ街の自警団によってこっぱみじんにされていた。人々はひそひそ話をしていた。「だけど奴の犬は本物の茶色だったぜ。」「ああ、だけどあいつ等が言うには、前は黒色の犬を飼っていたらしいぞ。」
 冷や汗が一筋シャツを濡らす。「茶色ラジオ」が昔茶色以外のペットを飼ったことがある500人が逮捕されたことを報じた。アナウンサーは「国家反逆罪」とまで言った。一晩中眠れなかった。茶色党のやつらが最初のペット特措法を課してきやがったときから、警戒すべきだったのだ。嫌だと言うべきだったのだ。抵抗すべきだったのだ。
 でもどうやって? 政府の動きは素早かったし、俺には毎日仕事があるし、他の人達だってごたごたはご免だから、おとなしくしているんじゃないか。
 誰かがドアを叩いている。こんな朝早くなんて初めてだ。・・・

 1990年以降、東西冷戦が終結すると、西ヨーロッパで民族・国民的アイデンティティによりどころを求める動きが強まって、ドイツ・フランス・オーストリア・ベルギー・イタリア・オランダなどで極右政党が台頭してきた。主張は共通してかつてのナチスと瓜二つである。
 フランスとブルガリアの二重国籍を持つフランク・パブロフは、こういう動きに危機感を抱き、人々の注意を促したいという意図から、この寓話「茶色の朝」を書いた。「茶色」はナチスを連想させる色である。フランスでは数十万部を売り上げたと言われる。本書には高橋・東大大学院教授のメッセージがついているが、それを含めても読むのに30分もかからない。そんな小さな本なのに内容は我が国の将来を左右するほどの重みを持っている。
 憲法がなし崩しに無力化され、いくつもの「特別措置法」(国旗・国歌法、イラク特措法、個人情報保護法、国民保護法など)が成立し、やがて憲法や教育基本法が改悪される日本とこの「ある国」のなんと似通っていることか。人々は政治に関心を失い、選挙にも行かず、日常生活に埋没し、「茶色に守られた安心」に浸っているうちに、「茶色の朝」にドアを叩かれて後悔してももう遅い。議会制民主主義制度を持っているから安心とはいえないのである。日本人全員に是非読んで欲しい本である。

[61] 親記事の数 投稿者:entee 投稿日:2004/03/09 (Tue) 12:31
ちょっと「園丁」からの連絡。私が主に原因なんですが、記事が長くなりがちで、ページが開くのに時間が掛かり過ぎるのに気付きましたので、1ページ当たりの親記事の表示数を10から5に減らしました。結果として、やや古い記事を読むのに「遡った5件」をいちいち押さなければなりませんが、不便は覚悟でしばしこれでやって行こうかと思いますので、ご理解の程を。

[Res: 61] Re: 親記事の数 投稿者:いしかわ 投稿日:2004/03/09 (Tue) 22:33
googleで「本との出会い系サイト」って検索したら、いくつかヒットした。このページが出ないんですが。

[Res: 61] 本との出会い系サイト 投稿者:entee 投稿日:2004/03/10 (Wed) 12:34
どうやったらこのページが出るようになるんですか? 教えて下さい。

[Res: 61] Re: 親記事の数 投稿者:いしかわ 投稿日:2004/03/10 (Wed) 19:09
そういわれてみると、どうして検索にかからないんだろう?

ファイルがcgiで、アクセスするたびにhtmlを生成するようになっているからかもしれない。そういえば、index.htmlを作って表示するタイプのbbsだったら検索には引っかかるようです。

たとえば、僕のサイトの、

http://cgi.din.or.jp/〜hajimebs/cgi-bin/bbs/light.cgi
これは検索されないが、

http://cgi.din.or.jp/〜hajimebs/cgi-bin/bbs2/
これは検索される。

違いは、前者がcgiスクリプト(アクセスすると実行されるプログラム)で、「見るたびに、そのときだけの表示ファイルを作り出す」タイプ、後者が「書き込みのたびにindex.htmlというファイルを作ってそこに置いておき、そのファイルを閲覧させる」タイプ、ということです。

(上記、僕が何か深刻な勘違いをしている可能性も大いにあります)

[Res: 61] 本との出会い系サイト 投稿者:entee 投稿日:2004/03/11 (Thu) 13:12
なるほど。きっとその通りですね。
で、悔しいので手前のページにしっかり「本との出会い系サイト」というキーワードを入れました。それに「案内板」にも。これでしばらくすればGoogleで引っかかってくるでしょう。

[Res: 61] Cgiのせいではない? 投稿者:entee 投稿日:2004/06/07 (Mon) 23:09
いしかわさんのご指摘で、そういうこともあるのかと思い、最近「index.html」タイプの掲示板を試験運用し始めてます。「entee memo 」という日記型のCgiページです。

しかし、同時に“Google 疑惑”(私がそう勝手に呼んでいる)も浮上。そのため、他の検索サイトもいろいろ比較し始めたら、いくつかのことことが判明。たとえば、Yahooの検索サイトだと、「Good/Bad Books」でも「本との出会い系サイト」でも、どちらでもこのページがトップに検索される。つまり、Cgiであるかどうかと関係なく、このページが検索結果として発見できることが分かったのだ。そればかりか、entee memoでも言及しているように、「窒素ラヂカル」のページも私のエッセイも、Yahooの方が見つけやすいのだ。ということは、Google側の検索選択性の問題と言うことになる。

どちらにしても、「html.html」を生成する掲示板は、このjoyful.cgiにあるようなの付加機能が付いていないので、ちょっとこのサイト用に使うのには不適かもしれない。こういう、話題別に区分けが出来ないし、JPEGイメージを張り付けることも難しいので、ちょっと考えてしまう。

いずれにしても、いろいろ参考になったので、ご意見助かりました。また何か判ったら教えて下さい。

[66] SIGHT vol.19 Spring 2004 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/03/12 (Fri) 18:44 <HOME>
本、ではなく雑誌です。雑誌なんですが、これは読んだほうがいいんじゃないか、と思ったもので。今号の特集は「非戦と反戦」。表紙は坂本龍一と藤原帰一。

今日買ってきたばかりなので、私もまだ最後まで目を通してはいませんが。が、巻頭の坂本龍一×藤原帰一の対談、姜尚中×酒井啓子(中東の専門家として最近よくテレビにも出ている女性です)の対談、マイケル・ムーアの記事など、読みどころは多いです。ムーアの特集のページに掲げられた“ブッシュの世界地図”は笑えます。

特集の表題はプロパガンダっぽいニオイもしますが、内容はいたって冷静な状況判断に基づいた上での「非戦」「反戦」というものになっています。

SIGHTのサイト(ダジャレじゃないです)は以下の通り。
http://www.rock-net.jp/sight/index.html

これが、芥川賞受賞作を掲載した文春の、三分の一くらいでも売れてくれれば、日本の状況も変わると思ってしまうのですが。

[Res: 66] Re: SIGHT vol.19 Spring 2004 投稿者:entee 投稿日:2004/03/14 (Sun) 18:09
投稿有り難うございます。
SIGHTのサイトちらっと見てみました。洗練されたページデザインですね。こんど閑なときにじっくり読んでみます。

非戦関連ですが、私も久しぶりに小論を書きました。閑なときは宜しく。

[Res: 66] 藤原帰一の著書 投稿者:entee 投稿日:2004/06/01 (Tue) 17:40
かなり前にIqueGuamiさんが投稿してくれた藤原帰一『「正しい戦争」は本当にあるのか』が、かなり話題になってきていますね。先週末の毎日新聞の書評で取り上げられていました。いよいよ読まなきゃという気になっていますが、お金が! 貸して貰って読むって言うのはどうですかね? もし、IqueGuamiさんがよければですけど。

[Res: 66] Re: SIGHT vol.19 Spring 2004 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/06/05 (Sat) 09:32
あ、いいですよ。今度、溝入敬三氏のCDと一緒にお持ちしましょう、忘れなければ(笑)。

[72] 「こんとらばすのとらの巻」溝入敬三(春秋社) 投稿者:田中じつお 投稿日:2004/05/16 (Sun) 15:46
こんにちは。

「音楽とコントラバスを愛する人のための事典」と銘打って、かの溝入敬三氏が、縦横無尽、傍若無人、支離滅裂、痛快無比に書いた本です。
池上さんのHPの雑記帳と響き合うような箇所が多々出てきたり、なんだかんだ言いながらやっぱり音楽が大好きな様が毒舌の影からちょっと顔を覗かせていたり、読み始めると止まらなくなります。

[Res: 72] Re: 「こんとらばすのとらの巻」溝入敬三(春秋社) 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/05/17 (Mon) 21:42
 田中さん、ご無沙汰しています。

 溝入さんの本、私はまだ立ち読みしただけなので、実は色々書く資格がないのですが(汗)…… しかし同じ楽器を演奏するものとして身につまされたり、笑ったり、「へぇ〜」と思ったり、と面白い本でした。給料が出たら、何とか……

 それにしても「ヴァイオリン族の最低楽器、いや最低音楽器……」とくだりには、その自虐ぶりに笑いつつ、溝入さんの裏返しの自信を見たような気がしました。

[Res: 72] Re: 「こんとらばすのとらの巻」溝入敬三(春秋社) 投稿者:entee 投稿日:2004/05/19 (Wed) 23:43
田中さん
書き込み有り難うございます。ついこのあいだ、エアジンでライブがあったとき、店のカウンターにおいてあるのを見かけ、手に取ってみました。マスターが「まだ出たばっかりだよ」と言っていましたね。面白そうなので、いずれ入手したいと思いつつ、まずは「彼のライブを見る」ということが先かなぁと思い直したのでした。

IqueGuamiさんがグッドマンにCDを持ってきたのを聴かせて貰ったのが最初で最後ですね、考えてみると。「あのCD」もう一度聴きたいな。

[Res: 72] Re: 「こんとらばすのとらの巻」溝入敬三(春秋社) 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/05/20 (Thu) 22:54
「あのCD」、すなわち『コントラバス劇場』ですね。忘れなかったら継ぎのもんじゅ連のライブの時にお持ちしましょう。

[35] 『ロゴスに訊け』 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/01/27 (Tue) 17:12
池田晶子・著 (角川書店)

 池田晶子は、哲学の専門用語をほとんど使わずに平易な文体で書くせいか、「哲学をわかりやすく紹介する人」と誤解する人も多いようである。が、彼女の著書は、言葉遣いは平易でも、内容はけっして平易ではない。「入門書」では断じてないのである。

 彼女の文章の難しさは、思考する行為そのものの難しさ、と言ってもいいかもしれない。その文を通して彼女は、自分が存在するとはどういうことか、この世界があるとはどういうことか、など、さまざまなことに疑問を投げかけて、とことん考え抜こうとする。その行為の難しさが感じられるのである。

 上記の書は雑誌に連載した文章をまとめたものであり、内容としては学術書よりは「エッセイ」に近いものだろう。が、相変わらずその難しさは一貫して存在している。そして(彼女が書いていることに賛同するか否かは別として)、自己の存在に対する彼女の思考は、世間の「哲学・学」者たちが足下にも及ばないほど、根本的な部分でシリアスである。そう、「哲学・学」じゃない、「哲学」をしているのである。

 まあ、ね、こういう人の文章を読んでいると、「ポスト・モダン」なんてなんぼのもんじゃい、という気がしますね。それに、彼女の著作や、長谷川宏訳のヘーゲルなんかを読むと、日本で横行している「わかりにくいだけの哲学的表現」をする連中(彼の世界では、このほうが圧倒的に多い)なんて、それだけでニセモノじゃないか、なんて気になってきます。例えば長谷川訳の『精神現象学』と他の人の訳を見比べると、その落差に笑っちゃいまっせ。

 特に、コウゾウだのキャッカンだのと、言葉づらだけ難しげな単語を並べて喜んでいる人物を見ると、ムショーにニセモノぶりを暴きたくなってしまう(ああ、オレって器が小さい……)。暴いたところで本人がそのことを自覚しなかったりするんですけどね。 

[Res: 35] Re: 『ロゴスに訊け』 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2004/03/18 (Thu) 20:09
同じ著者の、新潮文庫「ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け」を読みました。
「あたしはクサンチッペ、ソクラテスの女房さ。男たちは愚にもつかない議論ばっかりしてるけど、あたしはね、理屈こねる人間が大嫌い、目に見えて手に取れるものしか信じないー。希代の『悪妻』と『大哲人』の大激論。」という、対話形式がおもしろいし読みやすい哲学エッセイ。著者のソクラテス三部作の1つだそう。読んで感じたのはソクラテスさんがとってもかっこいい男だってこと。かなり好み。著者の彼への尊敬と愛がひしひし伝わってくる。クサンチッペさんはとても彼に惚れてる。彼も彼女に惚れてる。いい夫婦、いい男女関係だなや。2人がソファで寝ころんで語り込んでる様が見えるよう。取り上げているネタは今は流行が過ぎ去ったものも多いけど(「ソフィーの選択」とか「シンドラーのリスト」などなど)でもおもしろいですよ。毎回おとしこみが優等生的・・、常識的・・、な感じがどこかするのは、小咄スタイルの必然なのか、真のフィロソフィ態度への愛ゆえなのか、著者の本質をものがたるものなのか・・・、漠然としたまま放り出す感じの紹介にしてしまいました。ホントはクサンチッペさん口調で書き込みしたかったのだけれども器量及ばず、ということで。

[Res: 35] Re: 『ロゴスに訊け』 投稿者:entee 投稿日:2004/05/05 (Wed) 17:34
お久しぶりです。

良い著者を紹介して貰ったなぁ、実に。私も「悪妻に訊け」読みました。ハマリましたね。ソクラテスって、すごいアナーキストだったんですね。そんなことも知らなかった私にはすごくタメになりました。

これからは、しばらく池田晶子モードになりそうです。

「悪妻に訊け」は、確かにネタも流行を過ぎたと言われればそうかなという感じもナキニシモ、ですが、私が旧い人間のせいか、まったく気にならなかったですね。

[69] チョムスキー『メディア・コントロール』読了 投稿者:entee 投稿日:2004/03/17 (Wed) 11:54 <HOME>
ノーム・チョムスキー著『メディア・コントロール──正義なき民主主義と国際社会』 鈴木主税 訳(集英社新書)

(べつにこの掲示板は「反戦・非戦本紹介サイト」を意図した訳じゃないんですが...。)

ダワーの『容赦なき戦争』は、実に身にこたえるヘヴィーな本だったが、そのテンションを維持すべく、ブックオフでたまたま見つけたチョムスキーへそのまま直行。新書版の手軽さもあってほとんど2日ほどで読み終える。きちんとした書評はいずれ書くかも知れないが、とりあえず読了。

同書に収録されている辺見庸によるチョムスキーとのインタビュー「根元的な反戦・平和を語る」を読んでいたら、辺見氏...というよりは、われわれ日本人(全体)のモノゴトに対する「思い込み」や批評精神の「幼稚さ」というのをチョムスキーに見せつけられた気がして、かなり居心地が悪かった。(勝手に「われわれ日本人」をまとめた言い方をしてモウシワケナイですけど...。)でもそれを思い知らせる意味でこそ、われわれにとって意味あるインタビューとなったのだろう。

他のチョムスキー本を読んだ方がいたらその感想も聞きたいところ。

HomeマークはAmazon内のカスタマーレビューにリンク。

[68] 『容赦なき戦争』 ダワー著(平凡社ライブラリー) 投稿者:entee 投稿日:2004/03/14 (Sun) 18:22 <HOME>
猿谷要 監修/斉藤元一 訳
ジョン・W・ダワーは、何年か前に日本でも刊行されたその大著(ピューリッツァー賞受賞作)『敗北を抱きしめて』 の上下巻で、その名前を知っている人も多いと思う。私も出版されて間もなく読んだが、その中でも言及されていたのが本書である。日本の敗戦の実態とそれの意味したところをつぶさに語っていく、『敗北を抱きしめて』の執筆に取り掛かるに先立ち、まず戦われた日米戦争についての詳細な研究があった。そのリサーチ結果をまとめたものが本書である。

原題「War without Mercy 」で、副題は「太平洋戦争における人種差別」Race and Power in the Pacific War。ただし、「人種差別」という言葉から連想するような、戦争を闘ったそれぞれの国内に於ける自国の少数民族に向かう「日常的な差別」にフォーカスするものではない(言及はあるが)。あくまでも、闘う相手である敵国民に対する偏見がどういうレベルで如何にして高められたのかという視点で、戦争の「慈悲なさ」を描ききる。

Amazon内のレビュアーの中には、アメリカ人による著書だからアメリカ寄りになっている(のは仕方がない)、というような評価を下している人もいるが、どのように読んだらそのように解釈できるのか、私には分からなかった。

『敗北を抱きしめて』には確かに考え込んでしまう部分が多かったものの、私には特に日米間の人種偏見に深くメスを入れ、人間がどこまで残酷になれるのかという慄然たる事実、戦争がもたらす惨禍そのものに目を逸らさずに言及していく本書の方に、むしろより大きな衝撃を受けた。第二次世界大戦で死亡した人の数には改めて戦慄を覚えずに入られなかった。そして、どう考えても割の合わない戦争というものを回避するための知恵がここにはあると思う。

これについては(久しぶりだが)小論を書いたのでそちらも(出来れば)参照されたし。

HomeマークはAmazon内の同書サイト。

[56] 単一民族神話の起源−「日本人」の自画像の系譜 投稿者:entee 投稿日:2004/02/23 (Mon) 15:50 <HOME>
小熊英二(著)新曜社

これについて書く前にもう一度通して読んでみよう(よくやるんだが)とさえ思ったが、そうするといつまでもここに書けそうもないので取り敢えずアップします。

このタイトルから、勘のいい人はどんな内容のものなのか伺い知るかもしれないが、そう思う人ほど一度手にとって読まれることを是非お薦めしたい。小熊氏の代表作のひとつ(でしょ?)。力作! 内容に関してここで書いてしまうことは、映画のあらすじや結末を見ていない人の前でぶちまける、ようでやや気が引けるが、全く内容に言及せずにこの本について書くことはそれはそれでむずかしいよな。

ちなみに「単一民族神話」における「神話」の意味は、単一民族を証す「具体的神話」がどこぞにある、と言うことではなくて、むしろ「幻想」というのに近いニュアンスだ。つまり「単一民族幻想」ということ。言わずもがな、だろうが...。

本書は、まず、戦前に書かれたある「公式文書」をふたつを引用することから始まる。が、その内容の意外性でのっけから目眩を感じさせてくれる。早い話が、小熊氏は日本人の単一民族論というものが、戦前の日本では全然ポピュラーなものではなくて、その思想のひな形は戦中に生まれたのであり、それがむしろ戦後に一気に花開いたもので比較的新しい思想である、ということを論じていく。

これは、明治の国体論、基督教系の思想家、そして和辻哲郎や柳田国男などの思想をも巻き込んで行く思想の大河なのであるが、そのひとつひとつがうーむと唸らせてくれる意外性を持っている。

副題の「自画像」という言葉から伺い知れるように、日本人の起源に関する言説は、それが如何に科学的な体裁を採っていようと、それはどのように自分たちを見たいのか、どのように見せたいのかというある種の希望論に過ぎず、どうしたって科学的な論証にはならない。本書は、時代の必要に応じて揺れ動くこうした民族論を軸としたある種の日本人の思想史の一断面を見せてくれるものと言えるかもしれない。

日本は明治以来、ほとんど日本=「多民族国家」が主流だったんだね(へえ〜)。また、日本の初期の基督教系知識人たちの思想が、どのように当時の朝鮮半島の侵略・併合の思想をサポートし得たか、あたりの記述は緊張なしには読めませんでしたね(ドキドキ)。

詳しくはぜひ本書にて。アマゾン内のレビューも良かった。

Homeマークは新曜社ウェブ

[Res: 56] Re: 単一民族神話の起源−「日本人」の自画像の系譜 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/23 (Mon) 21:44
うーん、気になる。読みたい。小熊英二は本書も『<民主>と<愛国>』もものすごく気になるのだが、いかんせん先立つものが足りず、なかなか手が出ずにいます。

今は給料日を前に、上記書を入手するか、前から気になっている酒井直樹の本を何か読もうか、思案中。

[Res: 56] さりげないんっすよね 投稿者:entee 投稿日:2004/02/26 (Thu) 21:23
...IqueGuamiさんって。酒井直樹ですって? さりげなく「思案中」とか言っちゃってさぁ(もう)。思わず調べちゃいましたね(アマゾンで)。このひとの本も重厚長大っぽいなぁ。値も張るし。どうすんだい、おれは? こんなにいろいろお薦めがあっちゃ、いくら金があってももちゃしねぇ。く〜っ。

翻訳、主体、歴史、文化史...一体この人何者なんですか?(無知の表明を畏れずにお訊ね申します。)

[Res: 56] Re: 単一民族神話の起源−「日本人」の自画像の系譜 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/27 (Fri) 15:12
 いや、私も酒井直樹氏のことはまだよく知らないんですよ。いまはコーネル大学にいるんだったかな?

 以前テッサ・モーリス・スズキの『批判的想像力のために』(平凡社、これもいい本です)を読んだとき、その中で「日本国内で過小評価されている日本文化研究者」として、ハリー・ハルトゥーニアンと酒井直樹の名前があがっていて、それ以来気にしつつも読む機会にめぐまれずにいる、というのが真相。

 思案中と言いつつ、その思案の大きなファクターが価格だったりするのが、恥ずかしいのですが……

[40] 気が向いたのでもう一冊 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/03 (Tue) 22:15
『慶応三年生まれ七人の旋毛(つむじ)曲り』

坪内祐三著(マガジンハウス)

 タイトルの通り、慶応三年に生まれた夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨の七人の半生を描いた評伝。
 明治初期の、まだ社会が動きつづけている中で自分たちの道を求めて動き回る各人の人生をからめながら書き込んでいます。500ページ超と長いけど、面白いです。海外を飛び回る熊楠、逮捕されまくる外骨、貧乏旅行で東京を目指す露伴、みんな素敵です。

 500ページを超えつつも、物語は1894年までで終わる。漱石の「猫」が世に出るのがたしか1905年なので、時代的なことは想像がつこうかと思います。
 ここで終わる第一の理由は、著者が飽きたことだそうな。いいなぁ。そして、調査していくと、明治が面白いのは20年代までだそうな。

 ちなみに著者は苗字から坪内逍遥の子孫かと思ったがそうではなく、しかし別の文豪の血をひいている。同書の中で触れられているが、誰だったかは失念。失礼。

[Res: 40] Re: 気が向いたのでもう一冊 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2004/02/05 (Thu) 16:36
おもしろさうですね。読みたくなりました。そういえば外骨の出していた新聞の展示を見たことがあります。すごかったです。

[Res: 40] Re: 気が向いたのでもう一冊(と言わず、何冊でも!) 投稿者:entee 投稿日:2004/02/06 (Fri) 15:25
へえ、全員が同じ年生まれなんですか? 「25へえ」。(こういう「単位」があるのは先週飲み屋でやってたテレビ番組で知った。)それこそ「30へえ」っていうかんじ。

...てな事はどうでもよくて、私もじつはかなり興味を感じてます。「明治維新」以降「敗戦後間もなく」の時期の歴史に俄然興味が出てきたからです。なんか凄く大雑把ですが、まず「日本映画専門チャンネル」によって、戦争を挟んだ1930年台から1950年台にかけての日本映画の古典にはまり(とくに成瀬巳喜男のせかい)、戦前の日本の風俗文化が私が思った以上にアメリカナイズされていることに驚いた。私が両親からの話を元に勝手に描いていた戦前戦中のイメージと全然違う。戦前に描かれる中流以上の人々の生活は豊かだ。英語系外来語のたぐい「ナイス」「オッケー」「ベリグッド」などはともかく、「インスピレーション」とかが平気で出てくる(50へえ)。敵性語とか言って排斥されたのは、実に英米と開戦した後で、そうした動きはおそらく急速なものだったことが伺われる。(それはさしずめタリバンがアフガニスタンの政権を捕るやにわかに同国内の生活倫理コードが厳しくなった、みたいな感じかも知れない。)

いずれにしても、日本映画の古典から戦前の日本に興味が出た。それでもって今度は以前にも書いたように、『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』(小熊 英二)を入手後、読み始めたのであるが、とにかく戦前の日本については驚くことが多い。詳しくは別途詳述するつもりだが、「知識人」といわれるひとたちの自身(自民族)に関するルーツ探しに対する情熱は並大抵のものではない。そして、それらがどのように政治(具体的には日韓併合などの政策)に利用されるのか、とか、所謂知識人の人たちがいかにその時代に流布されている風説や常識に左右されるのか、とか、学ぶところが多い。

そして何よりも正統的な科学的言説よりも、いわゆるいまなら「文系」と言われるような人文学者や思想家がいかに戦前の国体論などに大きな影響を与えたのかということがあらためて思い知らされるわけです。そして、彼らも現代人と変わらず「科学的言説」の肉付けをした論述方法で、一世を風靡しようとしていく...。(実は「文学者」というのも危険な存在ですね。)

結局、いまは日清・日露戦争の辺りの日本の知識人の言説に興味が出てきてます。IqueGuamiさんの薦める『七人の旋毛(つむじ)曲り』は、私の知りたい時代にシンクロしてくるわけです。ま、正確に言うと、私に興味が出てきた日清・日露戦争*前夜の文学者(思想家)たちの話と言うことになりましょうか?

* 日清戦争:1894年(明治27年)8月〜1895年(明治28年)3月
日露戦争:1904年(明治37年)2月〜1905年(明治38年)9月

兎にも角にも、IqueGuami様、タイムリーな本著ご紹介ありがとうございます。

[Res: 40] 坪内祐三氏って... 投稿者:entee 投稿日:2004/02/06 (Fri) 15:56

↑てなことを、自分に引き寄せて書いていましたが、Amazonを探索中にいろいろ本書に関する熱烈な書評を見つけました。


かと思えば、 柳 美里なんかとODAIBA MOOKなんぞの編集をしている。これはあの敵対する悪名高き扶桑社が出版元だねえ。う〜む。


それに追い打ちを掛けるかのように、新潮社からは『靖国』。面白観光案内みたいなものとしての「靖国情報本」らしいけど、Amazonには「総理大臣の公式参拝を正当化する書」との書評もある。この坪内さんというひとはどんなひと? やっぱり国文学系のひとは靖国にはエムパシーがあるの?


[Res: 40] Re: 気が向いたのでもう一冊 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/06 (Fri) 16:16
坪内氏……

 ワタシもこの1冊しか読んだことがないので、あまり知らないのですが、扶桑社から本だしたり『諸君!』に連載を持ってたりすることからして、だいたい方向性は見える気がします。

 一方で右翼に襲われたことがあるという記述も見たことがあります。まあ、中核と革マルのケンカみたいなものかもしれませんが。

 紹介者自ら言うのもナニですが、表題書は大好きですが、他の著作は愛せないだろうと思っています。

[Res: 40] Re: 気が向いたのでもう一冊 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/08 (Sun) 09:55
 反応をいただけたのは、ストレートに嬉しいのですが、enteeさんの書き込みを読んで、正直、少々戸惑いも感じています。

 私は上記書を、タイトルと題材の面白さに惹かれて手にしました。そして言わば「読み物」としてシンプルに楽しみました。坪内祐三氏の思想がどういうものかも全く気にせずに。
 じっさい、上記書の中には坪内氏の思想が全面に出てくるところはありませんし、当時の思想状況に対しても、特に何らかの評価を与えてはいません。宮武外骨を扱う以上、全く触れないわけにはいかないにせよ。そういう思想的なことよりもある種の「群像劇」としての面白さを持った本だと、私は思っています。

 enteeさんの書き込みから勝手に判断する限りでは、enteeさんはある種の批判対象として日清・日露戦争当時の思想に関心をお持ちのようですが、そのような視点から読んだとき、上記書がenteeさんの期待にこたえられるものかどうか、私には自信はありません。たぶん、そういうものではないと思います。

[Res: 40] 戸惑わせてゴメン! 投稿者:entee 投稿日:2004/02/08 (Sun) 12:32
う〜む。
自分の感じているところを伝えるのは難しいですね。
(学問的な?)「批判対象として」(だけで)このあたりを読もうとしている、という印象をIqueGuamiさんに与えてしまったのかなぁと思いますが、実際はもっとイイカゲンなものです。No. 45でも書いたように、非常に大雑把にその時期の日本の文学者というか文化人たち全般に興味を持ち始めているというのが実際のところです(今のところほとんど何も知らんのに等しい)。それは「古い日本映画を見始めたところから興味を持った」ということからも分かって貰えるンじゃないかと思いますが...。その傾向に拍車を掛けたのが、今読んでいる小熊氏の本で、その上に(その時代にややオーバーラップしている)坪内氏の本のことがIqueGuamiさん出てきたから、面白そうだナと単純に思っただけです。その時代の雰囲気みたいなものを伝えるものすべてに、今は雑食的な興味を持っているということが言いたいんですね。

日清・日露戦争のことも、実は“そのあたりの時代”という漠然とした時代区分に含まれるに過ぎず、その戦争を支えた思想云々というのは興味のひとつに過ぎないのです(今のところ)。

あと、著者の坪内氏個人に対する興味というのはまったく枝葉のことで、実はそんなに大事な事じゃないです(一応、いまのところ押さえておきたい背景情報でしかない)。扶桑社関係にちょっと神経質なだけで。それより、IqueGuamiさんの『慶応三年生まれ七人の旋毛(つむじ)曲り』の読後感である「「群像劇」として面白」いととれる感想に全幅の信頼を置き、読んでみたいと思っているだけです。これで伝わったかな?

[Res: 40] Re: いえいえ 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/08 (Sun) 18:50
 こちらに誤解があったようですね。失礼しました。まあ、扶桑社と聞いて「ムムッ」と思うのはワタシも同じでございますし(笑)。

 この本を読んだときは、坪内氏がどういう人物か、知りませんでした。彼が自分の思想信条を変に反映させてなかったから、面白い本になっている気がします。それが出てたら、たぶん途中で投げ出してただろうなぁ。

[Res: 40] 兎も角。 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2004/02/10 (Tue) 21:16
ううむ。結局のところ、enteeさんは本書をひもどかれたのでせうか?私はまだです。本屋で立ち読みしてこようかな。

[Res: 40] Re 兎も角。 投稿者:entee 投稿日:2004/02/20 (Fri) 00:10
本屋で立ち読みできるような「規模」のモンじゃないでせう。ちうもんしておきましたから、このしうまつくらいに着くんではないでせうか。おたのしみおたのしみ。

[25] 小田亮「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書、2004) 投稿者:石川はじめ 投稿日:2004/01/13 (Tue) 23:01
これは面白かった。よいぞ。

[Res: 25] Re: 小田亮「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書、2004) 投稿者:entee 投稿日:2004/01/21 (Wed) 18:21
安そうだったからとりあえず注文したぜ。(短いコメントに短いレス)

[Res: 25] Re: 小田亮「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書、2004) 投稿者:石川はじめ 投稿日:2004/01/22 (Thu) 13:24
進化論、とくに「利己的な遺伝子」という視点の獲得以降の「進化心理学入門」というおもむきの本です。

[Res: 25] 小田亮「ヒトは環境を壊す動物である」読後感 投稿者:entee 投稿日:2004/02/18 (Wed) 10:46 <HOME>
前提:生物は、どのような種であれ、それぞれの棲む環境の中で、生存のためにさまざまな能力を発展させてきた。
生物について分かったこと:能力を発展させてきたものが陶太圧に抵抗して生き残っているが、進化というのはそもそも場当たり的な発展をしてきたものだ。したがって長期的展望を持っていない(基本的に)。
ヒトについて分かったこと:ヒトは生存のために、「心」を発展させてきた。「心」も長期的展望を持っていない(部分がある)。言い換えると、ヒトの「心」にも限界がある。(たとえば、われわれの「心」はせいぜい150人程度のヒトにしか「身内」意識を持つことが出来ない、など)
結論:したがってわれわれの「心」のありかたを変えて、十分に「身内」意識を拡張しなければ、こりゃあダメだね。

[読後に「んならやっぱダメだね、こりゃあ」と思ってしまう読者もいるんじゃないだろうか。そう言う方向で納得したい「環境破壊阻止不可能説」の積極的支持者を勇気づける論のようにもとれるぞ、これは。  でもそれは置いとくとして...]

これらはある意味では極めてありふれたハナシだし結論だ。おそらく小田氏の言っていることにはほとんど誤謬がない...ような気がする。読んでいてどんな意外な結論が出てくるのだろうと期待するなら裏切られるかもしれない。ただし、正しい説(正しそうな説)が「ありふれたもの」であるとしても、そのこと自体には罪がない。「ありふれているが謬説である」もので、われわれに広く悪い影響を与えているようなものも沢山あるからだ。「欧米人は狩猟民族である」とか「農耕民族は平和的で殺戮を好まない」みたいな俗説は、(日本では)ありふれていて、しかも広く受け容れられがちな言説であるが、明らかな謬説である(山本七平あたりが流布に貢献した)。だから、こういう「ありふれているが正しい説」というのがどこかできちんと言語化されているということ自体は悪いことではない。

ま、そういう意味ではこうした本の存在は、よかったという感じだが、ちょっと物足りない感じがしたのは私だけではないだろう。新書版という限られた紙面にももちろん原因はあるのだろうが、それよりも「ヒトと環境」という「くくり」自体が、だれにとっても難しい分野であることでもあるのだろう。小田氏自身も断ってるように。

面白かったところは、全体をとして流れる論旨よりは、むしろ例えばこんなところだった。
「雄と雌の体格差を見れば雄どうしの争いがどれくらい激しいかということが予測できます」とか、
比較的知能が高いとされているフサオマキザルに餌に対し小石を支払うようにしつけると、たとえば「キュウリを渡すと小石を払う」ようになる。2匹のフサオマキザルの一方にキュウリを渡し、もう一方に好物のブドウを渡すような不公平な扱いをすると、「キュウリを渡されたサルの方は受け取りを拒否したり、小石を差し出したがらなかった」という。つまり彼らフサオマキザルにも平等感覚があり、不公平な扱いに対して怒りを抱く。つまり、感情は生き残るために必要な条件として発展させた感覚だ、というようなハナシとか。当たり前のようでいて「35へえー」っといった逸話がありました。

Homeマークは小田亮氏のWebです。

[32] 「知」の欺瞞 一 ポストモダン思想における科学の濫用 投稿者:entee 投稿日:2004/01/22 (Thu) 19:12 <HOME>
アラン・ソーカル ジャン・ブリクモン 共著 
田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹 共訳(岩波書店)

なにしろ原題は「Fashionable Nonsense」だ。これで何かぴんとくる方も多かったりして。「趣味は評論家評論」とか言っている場合ではないゾ、これは。それに、訳の分からない評論を「オタクが読んだら悶絶するような名文かもしれない」とか言っている場合でもないワ、これ。私が知っているこの「原題」に一番近いフレーズは「退屈をシリアスに為る」ってやつだ。それにしても、ラカン、ドゥルーズ、ガタリなんかにうつつを抜かさなくて良かったと思ったね、ホントに。だって人生の浪費でしょ。手には取ったことがあるが、それにハマらなかったのは卓見だったと自分をホメたい(“しなかったこと”で自分を誉めてどうする?)。タハハハハ。

(さて、ちょっと真面目に)著者の明晰な語り口に久しぶりに知的興奮を覚えた。サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』以来の興奮。でも私の人生への影響の大きさの点で言えばその比じゃないかも。だって、何かについての「言説」を展開するのに、いちいちこれから本書のポイントを意識せずに書くことや発言することが出来なくなるくらいの力を持っているように感じるからだ。

そんでもって「一気に読んだ」とカッコつけて言いたいところだが、(もちろん休み休みだが)読み終えるのに3週間掛かった(ふうっ)。石川はじめの推薦で昨年から本書を知っていて、読みたい物リストの上位の1冊に入っていたが、すぐにでも読もうと矢も盾も堪らなくなったのは内田樹の『ためらいの倫理学』を読んでからだ(内田樹にしても石川からの流れには違いないが)。[それほど内田樹の“ソーカル事件”に関するアウトラインは実に分かりやすかった。]他にも色々読みたい本があったが、とりあえず我慢してこれに傾注。読んでいる間、律儀に総ての「ケース」について十分に<<理解>>しながら読みすすめる必要がホントにあるのか?とさえ思ったりもしましたが、そこで簡単に本書の著者を信頼しては、またまた「別の欺瞞」に陥るかも、と懐疑を覚えたのでガンバッて読みましたね。

ラカン、ドゥルーズとガタリ、ヴィリリオといったポストモダンの旗手たる一連の著述家(“思想家”)たちの記述に対して「おい、おめえらはホントーに読むに値するのか?」と疑問に感じていた(反・“仏”系思想の)方がいれば、喝采を送りたくなるような素晴らしいアチーブメントでしょう。しかしだ。これほどハラハラと共感を覚えつつ、ピリピリと自戒をも促すというような本も実に珍しい。というか本がスゴイとかいうことではなくて、ソーカルたちが実際にやったことがスゴイ訳なんだけど。う〜、いつか、どこかで、オレもこういうゲリラ活動をやって音楽関係の似たような「知的」著述家どもを一泡吹かせてみたい。。。とか思ってしまう感じです。

えっと。「ソーカル事件」として知られる、本書の端緒となった“知的悪戯”については、私のつたない感想文よりも翻訳者によるサイト上の「まとめ」を読む方が、言うまでもなくず〜っと有益。知らない方も、「この本を読んでみようか」という気持ちになるかも知れない。まとまりがなくゴメンね〜、みんな!

http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/Hori.html

あと、石川のウェブでの紹介ページもなかなか鋭く親切(いつもながら)。
http://cgi.din.or.jp/~hajimebs/cgi-bin/bsbook/data/column/1052278164.html

ちなみに、Homeマークは岩波書店内の本書紹介ページにリンクしてます。Amazon.co.jpではいまんところ、「のこり1冊」になってますし...。

[Res: 32] 似た系列かも? 投稿者:kuro 投稿日:2004/01/24 (Sat) 05:42
表題作を読んだわけではないので、反則かも知れませんが、一言。

>訳の分からない評論を「オタクが読んだら悶絶するような名文かもしれない」とか言っている場合でもない

引用箇所は僕の過去の発言だったと思う。思い違いだったらとんだ自意識過剰ということで一笑に付してください。ただ、僕にこの本を読ませたくて挑発しているなら、ここでも僕の足取りは重いのだ。僕の中ではtentativeながら解決済みの主題に思えます。


科学、もしくは科学的言説とは何かを考えるには、John L. Casti によるParadigms Lostおよび Paradigms Regained (表題はThomas Kuhn著 The Structure of Scientific Revolution で一躍流行語になったparadigm を使ってJohn Miltonの Paradise Lostおよび Paradise Regainedをもじったもの)の二部作も示唆的。後編序章ではやはりソーカル事件を扱ってます。John Horgan のThe End of Scienceもそれなりに面白く読みました。 Karl Popper
までは読むほど暇でもなければ実は関心もない。とりあえず本棚に2冊ほど並んではいますが。

批評的言説の妥当性を吟味するうえでは Frank Lentricchia のAfter New Criticismも参考になった一冊です。米国の大物文芸評論家達の論理的齟齬をつき、片っ端から撫で斬りにした、ある意味では大変勇気のある本です。おそらく、時系列では最も早い一冊なのでは?

というわけで、(どういうわけ?)表題作は読まなくてもどんな内容か想像がつく気がする。もちろん、コレが僕のいけないところだ、わかっているのだ、それは。

それでも、訳の分からない評論を「オタクが読んだら悶絶するような名文かもしれない」という事態は、現象として可能であると今も思います。それを憤る気持ちは、僕にはない。

科学を標榜する批評的言説に対する僕の個人的態度はここ十年以上何の変化もしていない。今後も、変化することはあっても進歩はしない予感がします。ネガティブな返信で、ゴメン。

[Res: 32] Re: 似た系列かも?(← その通り!) 投稿者:entee 投稿日:2004/01/30 (Fri) 00:58
まったく「反則」でもありませんし、そもそも反応に「ネガティブ」なものは全然ないです。「読ませたくて挑発した」と言うよりは、この辺りの本なら何か反応があるとしたらきっとKuroさん辺りだろうと思って、敢えてそういう引用をしたというのはあります。その意味ではいやらしいのですが、私が期待していたような文章をアップしてくれたのでありがたいです。

そう。まったく仰るとおりで、ある程度「科学的言説」に関する批評に関心のある人であれば、「ソーカル事件」は何かを通してとうに知っているようなものだったに違いありません。

また、これを言い出すと、ここにこの本を薦めた前提を覆すことになるかも知れませんが、「表題作は読まなくてもどんな内容か想像がつく気がする」というのはけっこう当たらずとも言え遠からずかも知れません。つまり、ソーカル事件についての解説を一度読めばソーカルのやったことの価値は十分に分かると言うことです。なぜいちいちそれを自分が追体験する必要があるのか?という辺りで腰が引けるというのはある程度理解できます。私の場合、余りにもその事件が興味深いことだったので、自分でそれを仕掛けた本人の言葉をどうしても読んでみたいというのはありましたけど。確かに、実際に読み始めるとすぐに『律儀に総ての「ケース」について十分に<<理解>>しながら読みすすめる必要がホントにあるのか?』とは思いましたよ。でもそれが読後感で言うと、律儀に読む価値は、あった、というのが私の結論です。

さて、いくつかの本や思想家の名前が言及されていますが、CastiとかLentricchiaなどは、原文で読まれたのでしょうか?それとも邦訳がavailableなのでしょうか? Horganはたしか邦訳が紹介されていたように思いますが。

実は、話は変わるのですが、科学史とか科学思想について私が興味を持つきっかけになった村上陽一郎ですが、クーンやバターフィールドの紹介者として日本では「科学批判」の立場を打ち出して、それなりの権威として知られているようですが、彼の論理展開や引用の方法に関してかなりいろいろな人から批判が出ているようです。ネットでも探すことができますが、結構納得させられるものが多いです。これについても最近知ったので、自分の科学論についてもあらためて検討しなければならないなぁ(やれやれ)と感じている今日この頃です。実に、自然科学以外の「人文系科学になろうとしている系」の扱いには注意が必要なようです。

私の場合、本を読むほど、自分の世界観を補強すると言うよりは、世界観の解体および再構築という作業に陥りがちで、最近は正気かなりしんどいです。それだけ自分が間違いやすく思い込みやすかったと言うだけのことなんでしょうが(ぽりぽり)。

これに懲りずどんどん私の興味ありそうな辺りの本や著者を教えて欲しいです。

[Res: 32] Re: 「知」の欺瞞 一 ポストモダン思想における科学の濫用 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2004/02/05 (Thu) 16:46
>>それだけ自分が間違いやすく思い込みやすかったと言うだけのことなんでしょうが(ぽりぽり)。

「ぽりぽり」って何ですか?平仮名で擬態語(?)風で私向けなので思わず鼻がクンクンクン、となりましたもので。

[Res: 32] Re: 「知」の欺瞞 一 ポストモダン思想における科学の濫用 投稿者:kuro 投稿日:2004/02/08 (Sun) 04:53
レントリッキアは未来社から『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上・下二分冊で出ていました。十年以上経っているので今入手可能かどうかは不明です。高校時代に読んだ坂口安吾の『教祖の文学』や、『不良少年とキリスト』などと似た読後感。とはいえ、アプローチはかなり違います。原書は数年前に入手しました。HorganとCastiは原書で読んだので、翻訳が出ているかどうかは知りません。ネットカフェからの投書が多いのは自宅のコンピュータの入力変換が不調で大変だから。今自宅のコンピュータからアクセスしていますが、括弧も入力が困難なのだ…

[41] 特になし 投稿者:kuro 投稿日:2004/02/04 (Wed) 08:17
 最近は何も読まずひたすら麻雀ばかりしています。徹マン後、朝のネットカフェからまた書き込んでいます。
 いつも皆さんの投書は大変興味深く拝読させていただいております。どうやら普段僕が接している人たちとはずいぶん読書量も読書の方向性もちがうようです。そりゃ雀荘に巣食うおっさん達とは違うよね。
 ええと、特に書名を挙げられないのですが、僕が以前から原書や翻訳を読んでいて気になっていることがあるのです。ちょっと書いてみようと思うので、皆さんの感想をお聞かせください。
 一般に、西洋の人々は「世界の秩序」とセットで必ずと言っていいほど「その秩序の中のどこに自分もしくは人間は位置するのか」ということにこだわっているように思うのです。逆に、後者がなければ前者の追求もない。どうでしょう?僕ら東洋人に言わせれば、問いの設定自体が莫迦げている、としか言いようのない愚問を一流とされる知性が大変なエネルギーを費やして追求している面があるように思われます。西洋文化特有のオブセッションかもしれません。とにかく個人的にはthe scheme of things and our place in itもしくはそれに類する表現にうんざりするほど付き合ってきた印象があるのです。前者が比較的empiricalである(つまりつきあいやすい)のに対し、後者はむしろ宗教に近い(つまり、受け入れるのが大変、簡単に「信仰」はできない。個人的に納得したことはまずない)、そのように思うのですが。ひとつにはキリスト教世界の序列をいかに保つか、という大変くだらない(?)営みがいまだに水面下で続いているのかもしれません。
 説明が下手でうまく言えていないかもしれませんが、皆さんはどう思われますか?「当たり前じゃん」とか「なるほど、わかる、わかる」とか、「それはまったく違う」とか。
 掲示板の方向性が乱れそうで、やや心配ですが、こういう問いをぶつけられる人が身近にいないので、少しばかり付き合ってやってください。

[Res: 41] Re: 特になし(←お薦めの本が...ということでしょ?) 投稿者:entee 投稿日:2004/02/06 (Fri) 18:25
非常に興味深い問題提起です。
みんなが沈黙しているかに見えるのは、まずKuroさんの意図している問題を問題として理解するのが難しい そして理解したとして今度はどう返答して良いか、自分が返答すべきなのか、ちょっと考えあぐねているという状態なのではないでしょうか? まじめに返答しようとするほど簡単に応えられず却って不本意な沈黙が続くと言うことはあるかと。

さて。とりあえず、まじめな話の腰を折ってみるとすれば、<<ひとつにはキリスト教世界の序列をいかに保つか、という大変くだらない(?)営みがいまだに水面下で続いているのかもしれません>> というのは、全然当たっていなくて、所謂ヨーロッパの「思想家」たちにとってはキリスト教を頂点とする世界支配の序列というのは、おそらく大問題で、決して「大変くだらない」ことではない。

でも、ひとくちに「キリスト教世界」というヤツだって、いまアメリカ合州国とヨーロッパ“合州国”間で世界支配の席を巡って(5と6のあいだで)綱引きをしているし、かならずしも「キリスト教世界」であるということについて実際の政治家たちが自覚的であるかどうかはわからない。だって、たとえばあのブッシュ(ジュニア)がそんな遠大な「思想」に対して自覚があるとは思えんじゃないですかっ。彼ら、「ネオコン」でしたっけ...(名前はどうでも良い)が、宗教的ドグマというかそうした神秘思想から自分たちの今後の行動の行方を決めているというよりは、たんに目先の利益を如何に増やすか、どうやって一族の利益を守るか、なんてことに戦々兢々としているだけのようにしか見えない。

むしろ怖いのは、集団の無意識みたいなものが、古代の宗教書が預言していたような事態を引き起こすとか、そうした成就を阻もうとしている反宗教派みたいなひとびとの努力が却って預言の成就を助けてしまう、みたいなパラドクスです。積極的な成就派も成就阻止派も、みんな結局「よりドラマティックな成就」をもたらすために機能してしまうという怖さです。このあたりは、No. 45でちょろっと言及した小熊氏の本(『単一民族神話の起源』)を読んでいても感じます。それは言い換えると「思想」に関わることの怖さでもあり、「言葉」を発することの怖さでもあります。O Lord!

いま、改めて考えてみたら、<<西洋文化特有のオブセッションかも>>というのは、実は違ってて、“世界支配”(それは全世界である必要はなくて、たとえば戦中戦前の日本なら“大東亜共栄圏”みたいな支配ロジックでも同じ事ですが)みたいなことに野望を抱いたり期待したりする人々に共通の「心の動き」なんではないでしょうか? 国体論というものひとつ取っても「民族」や「神話世界」への回帰抜きには考えられないのであって、他国や他民族を支配下に収めようとするとき、「理屈上の秩序」の中にも自分たちの正体を収めようとするということはどうもあるらしい。

となると、あえて、日本人だってそういうオブセッションを持てる以上、「西洋文化特有」とは言えませんよね、という話です。むろん、戦前戦中の日本がすでに「西洋文化」の傘の下にいたというなら、Kuroさんの仰るとおりかも知れません。[でも、敢えて言わせて貰えば、西洋特有とか東洋特有とかいうような言い方そのものには、反射的に抵抗を感じることは確かだナ。ホントーに特有なのかよっ、てね。]

さて、真面目な返答への機が熟するまで沈黙は続いて良いわけですが、そのシリアスな会話の前にまず私のNo.36のいくつかの(どうでもいいような)質問に、簡単に応えていただけるとenteeとしては嬉しいんですが。それとも「愚かな質問には敢えて応えず」というカタチの「ご返答」なんでしょうかね、Kuroさん?

[39] 「金で買えるアメリカ民主主義」 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/03 (Tue) 21:52
著:グレッグ・パラスト(角川書店)

 えー、マイケル・ムーア読んだら次にこれ読みましょう。ブッシュが大統領選で行った不正、アメリカの大企業と政府の癒着ぶり、そしてアメリカがいかに他国をメチャメチャにして利益を得ているか、などなど、これでもか、という感じで書かれています。

 この人のスタイルは「調査報道」というらしく、様々な資料を徹底的に読み込んで色々なものを見出していく、という感じ。

 なんでもこの人、米国内では記事を出せなくなってイギリス等で活動しているそうです。

 URLは、
http://www.GregPalast.com/

[Res: 39] Re: 「金で買えるアメリカ民主主義」 投稿者:entee 投稿日:2004/02/06 (Fri) 13:55 <HOME>
サスガデスネ、投稿シタノガ21:52デ、記事番号ガ「39」トハ。

21 = 7+7+7
52 = 13+13+13+13
39ハ...イフマデモナイ

サスガ、The Best Democracy Money Can Buy!

カネモナイケド、ヨムジカンモユウゲンデス。デモガンバッテヨンデミマス。

(「ホーム」アイコンは角川の該当ページへ。)

[16] もう一冊 The Book of Illusions 投稿者:kuro 投稿日:2003/12/28 (Sun) 02:05
こっちは最低。仕掛けが見え見えで読み通すのが苦痛でした。
Auster 嫌いじゃなかったのに…。想像力が貧しくなったような気がする。村上春樹といい、年を取ると一時的にそうなってしまうのでしょうかねぇ?

[Res: 16] Re: もう一冊 The Book of Illusions 投稿者:kuro 投稿日:2003/12/28 (Sun) 02:12
自分で返信書くのも変ですが、言葉が違った。一言で言うと、ひどく冗漫なんだよねぇ、どちらも。字数稼ぎかと邪推してしまうほど。年を取って説教臭くなり、話がくどくなってきたのか…、という印象を持ったのでした。

[Res: 16] Re: もう一冊 The Book of Illusions 投稿者:entee 投稿日:2004/01/02 (Fri) 10:29
こういう「ダメ本」の警告も有り難いですね。でも、みんながあまり知らなさそうな著者とか、もうひとこと加えて紹介して貰えると嬉しいんですけどね。それともAusterとか知らないのは私だけ? フルネームは? 出版社は? お薦めでなければ、言及する必要もないかな...?

[Res: 16] Re: もう一冊 The Book of Illusions 投稿者:kuro 投稿日:2004/01/03 (Sat) 04:14
Paul Austerは恐らくBrooklyn在住のユダヤ系作家。New York 3部作などが有名。映画Smokeのシナリオを書き、その後続編のBlue in the Faceで映画監督業にも進出している。
僕が読んだのは faber and faber 社の300ページほどあるペーパーバック版。それなりの人気作家なので、例によって柴田元幸が翻訳するのでは?柴田と言えば、サリンジャー翻訳について村上と対談しているようだ。つまり、オースター→村上は柴田つながりだったのかと今気づいたのでした。

[Res: 16] Re: もう一冊 The Book of Illusions 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/01/05 (Mon) 14:01
村上&柴田による『翻訳夜話』(文春新書)によると、柴田元幸氏は村上氏の翻訳チェックをしているのだそうです。文体の雰囲気が似ているのはそのせい?

 オースター作品については日本では柴田独占市場みたいなもんなんで、彼が翻訳するでしょうね(唯一、角川文庫の「シティ・オブ・グラス」のみ、柴田訳ではない)。柴田氏には、オースターより先にミルハウザー訳してほしいな。売れないだろうけど。

 NY三部作もいいのですが、個人的には処女作(だったよね?)の『孤独の発明』が一番好きだったりします(ちなみに新潮文庫)。

[Res: 16] The Music of Chance 投稿者:entee 投稿日:2004/01/22 (Thu) 15:25
へえっと思いながらお二人のやりとりを見ていましたら、つい昨日のことですが、職場でいきなり「The Red Notebook」という本を手にしている人がいたので表紙を見るとPaul Austerの名前が。知らなかったのは自分だけ〜? 「アメリカにいたことがあったくせに、Paul Austerも知らなかったの?」と言われそうですが、実にお恥ずかしいことですが、知りません(今も)。

アマゾンで調べたらなんと129 items出てきて驚きました。ところで、リストの中で「The Music of Chance」というのがありましたが、これって映画化されてませんか? なんかNYにいたとき名画座的な映画館で上映していたような気が。多分意味は「偶然性の音楽」だろうと思い、タイトルだけ覚えていたのです。とすれば、一度は私も(そうと知らずに)接近遭遇していたわけですね(だからどうって訳でもないけど)。誰か内容知っている人はいる?

[Res: 16] Re: 最近オースター読んでないから記憶が曖昧 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/01/23 (Fri) 11:08
The Music of Chance、日本では『偶然の音楽』というタイトルで出てますね。映画にはなってなかったと思います。

内容はねえ、主人公が父の遺産をもとに旅に出て、旅先でギャンブラーに出会って……(だいぶ記憶が曖昧になっている)という、ちょっと説明しづらい感じ。端的に言ってしまうと、不条理劇みたいな路線というか……

えー、ワタシ、ハードカバーで読んだんですが、今部屋を探してみたらどこかにまぎれて出てこない…… 出てきたらeteeさんに「押し貸し」しようかと思ったんだけど(笑)、どこに行ったのだろう。こうなると俄然気になってしまいます。

あ、ちなみに新潮文庫に入っているから、5-600円で買えます。

[Res: 16] (あらま)映画になってた! 投稿者:entee 投稿日:2004/02/02 (Mon) 13:13 <HOME>
偶然、Amazonを放浪しててで見つけてしまったんですが、「The music of Chance」はやはり映画化されていましたね。ビデオも出ています。James Spaderが出演していますね。Austerとなんの関係もない同名の映画かも知れないと思って色々調べたんですが、Auster原作となっていました。発表年が1993年ですからちょうど私がNYにいた頃です。その頃からとうに名の売れた作家だったんですね。

HomeアイコンからAmazonの該当ページに直接リンクしています(もし興味がおありでしたら)。

[Res: 16] Re: 25へぇー 投稿者:IqueGuami 投稿日:2004/02/03 (Tue) 09:29
へぇー、知らなかった。映画になってたんだ。たぶん日本では未公開だろうなぁ。VHSなら見られるから、取りよせてみようかしらん。

[24] 長谷川眞理子「生き物をめぐる4つの『なぜ』」 投稿者:石川はじめ 投稿日:2004/01/09 (Fri) 23:57
(集英社新書、2002)

やさしい語り口ながら、深い内容でした。

[Res: 24] Re: 長谷川眞理子「生き物をめぐる4つの『なぜ』」 投稿者:entee 投稿日:2004/01/22 (Thu) 15:02
こっちも、もう少しどう深かったのか教えてくれるとありがたいです。(短いコメントに短いお願い)

[26] ピアニストを笑え! 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2004/01/14 (Wed) 16:26
山下洋輔 著 新潮文庫

すみません。元旦にこれを読んでいたもので。
初めてだったのです。山下本体験。おはずかしい。
高校生の時、マイルス・ディビスやビートルズのレコードを貸してくれたゾウ氏が著者を崇拝していたのですが、私は読もうとしませんでした。テレビにも出る有名なジャズ・ピアニストとしか認識していなかった。まったく無知蒙昧傲慢バカでした。当時これを読んでいなかったとは片手落ち(この語はダメなのでしょうか?)、だからだったんだ、しばしば挫折感を味わって帰宅していたのは。笑われたってしょうがないね。筒井康隆と山下洋輔はかって一体だったんですね。読後感が金子光晴の「ねむれ巴里」(中公文庫)を思わせた。それにしても、人名の誤植は、やはり感じのよくない感じがするものだ。

余談ですが「バカ」と使ってしまって思い出したこと。本や雑誌のタイトルにこの言葉を用いるのって非常に嫌な感じがする。日常会話、特に親しい関係ではつい言ってしまうことはあるけど(人前で大人が子どもに言っているのを聞くとこっちまで落ち込んでしまうし)、活字媒体の影響って大きいし。一度使ってウケると二番煎じが次々に登場しますよね、編集者や会社の企図で。
売れているということは世相を反映している語だということなのかもしれないけれど。でもやっぱりやな感じで手に取りたくもない。気持ちがささくれ立って荒んでくる。生きてるのがいやになってくる、「じゃ、死ねよ」という声が聴こえ、苛立ちと悪意が大気中に蔓延する・・・、私は良風美俗を推進するものではありません。糞尿関係やエッチな話は自粛しているくらいげさくです。・・・とにかく、タイトルに「バカ」を用いるのって分別や知識のある大のおとながわざわざやることではない気がする。


[Res: 26] 「バカ」で思い出すこと 投稿者:entee 投稿日:2004/01/21 (Wed) 18:19
おそらく養老孟司の超爆発的ヒット本のことを言っているのかと思いましたが、誰かこのアタリで読んだヒトはいるのかな。たしかに真面目そうな本のタイトルにその語があると、ぎょっとする感じはあるね。不快になるっていうのは、雑誌で「バカ女」みたいな特集もあったみたいだし、そういうのを言っているんでしょ?

おっと、マイケル・ムーアのあの代表作も日本では「○○で○○な○○○○○人」とかなっていましたな(あれは「アホ」だったか?)。あれは邦訳での話で原題は全然違いますね。おそらく、そうした訳もウケの二番煎じを狙った点はあるかも知れませんね。でもムーアの本はやっぱりお薦め。
(ってぜんぜん山下ボンのレスになっていない)

[4] 小熊英二・上野陽子「<癒し>のナショナリズム」 投稿者:石川はじめ 投稿日:2003/12/21 (Sun) 20:06
慶應義塾大学出版会、2003

お勧めに従って、本日早速買ってきました。調布パルコブックセンターにありました。読了次第感想を書きます。

ついでに何となく、
養老孟司「いちばん大事なこと 養老享受の環境論」集英社新書、2003
も購入。

[Res: 4] Re: 小熊英二・上野陽子「<癒し>のナショナリズム」 投稿者:entee 投稿日:2003/12/21 (Sun) 22:10 <HOME>
おっ! 早速ありがとうございます。
で、いちおう盟友氏の名誉のためにひとこと申し上げておきますと、私に上の本を紹介してくれたのが、#2のIqueguami氏です。

それでさぁ、いつ配達されるか分からないンだけど、注文しちゃったよ、
単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜" (小熊 英二)。はまってきてるな、だんだん。こちらも、読み終わったら感想を書くと思います。上の「おうち」マークは新曜社へのリンクになっとります。

[Res: 4] Re: 小熊英二・上野陽子「<癒し>のナショナリズム」 投稿者:石川はじめ 投稿日:2004/01/07 (Wed) 19:01
うーむ、面白かったです。まず、小熊氏による分析や思想的・社会的位置づけは迫力と説得力に満ちているし、この点に関してはじつに、勉強になりました。

ですが、「大きな物語」を喪失し、「わかりやすいストーリー」に頼ってしまう「フツウの人々」のことについて、けっこう考え込んでしまいました。

仕事柄、この手のことについては、いつもわりと切実に考えています。というのは、造園のデザインの主張というのは基本的に「地域主義」であるからです。結局、僕らは実感できる「手触り」のあるものに、自分のアイデンティティの拠り所として「預けてしまう」ことから逃れられないんじゃないだろうか。という気がするのです。いやこれは難しい問題だな。うむ。

あと、インタビューをし、「参与観察」しながら、その社会集団内の価値観や特色を分析してゆく、社会学のフィールドワークについて、いささか居心地の悪い思いをしながら読みました。なんか、議論しているつもりで自分の意見を述べているときに、目を細めてこちらの話を聞いていた相手が、いきなり「おまえ、B型だろ」なんてことを言い出したような。

「エスノグラフィ」と題されていたけど。社会学に通じているわけではないのですが、こうしたリサーチはしばしば「オタク」とか「オウム」とか「女子高生」とか、「なんかよくわからない、変わった連中」で、それを「どういうふうに位置づければ納得できるか」という操作と記述のように思えてしまいます。どうもこういう「民俗誌的調査」には、非常に興味をそそられると同時に、そういう自分に意地汚いはしたなさを感じてしまって、抵抗をおぼえるのです。

そういうわけで、「あとがき」には非常に救われる思いがしました。実にいい、あとがきだったな。

[20] 『緑の資本論』 中沢新一(集英社) 投稿者:entee 投稿日:2004/01/02 (Fri) 10:46 <HOME>
年が変わりましたが、今年もこちらへの投稿参加を宜しくお頼み申します。

さて、こんなことばかり言っては言葉への信頼も落ちるかも知れませんが、どうしても落とせない「私の昨年のメガヒット本」の1冊です。ちょっと長くなります。(注:誰もがこんなに書く必要は全然ありません。)

この本には、「(9.11後、)なにもかもがむきだしのリアルワールドで、思考されなければならない...私はもう思考の主人ではいられなくなった。私が思考するのではなく、思考の方が私を駆り立てて言葉に向かわせる」と語る中沢新一が、短期間に一気に書き上げた三つの論文(+アペンディクス)が収められています。

- 圧倒的な非対称
- 緑の資本論
- シュトックハウゼン事件

「圧倒的な非対称」:これはこのタイトルから、すでにぴんとくる人もいるかもしれませんね。われわれの世界が(さまざまな伝統的手法で象徴されるような“対称”であるどころか、むしろ)、「圧倒的な非対称である」という言い方で、野蛮な「グローバリスト国家」対「残りの世界」の関係や、一方的に自然の生産力から収奪することで生きている「われわれ文明生活者」と「自然」との関係を評していくもの。

「緑の資本論」というのは、いわゆる単純な「エコロジー的資本論」という意味での「みどり」ではなくて、「赤の資本論」、言い換えれば赤いマルクスの資本論や赤い十字架のキリスト教世界への反定立としての緑の資本論ということです(よけい分かりにくいか...)。ここでの緑はイスラムカラーであるグリーンであって、直接にはエコロジーとは関係がない。中沢氏は、イスラム教という宗教そのものが、快楽追求を至上のモノとしてしまう恐れのあったキリスト教のもつ潜在的危険性とキリスト教社会へのアンチテーゼとして最初から意図されたものではないか、みたいなところまで踏み込んで論じていきます。これには私はぴんとくるものがありました。「金利を取ることを禁止するイスラム社会における相互扶助としての銀行業」などについても言及していくこの文章は、『エンデの遺言』を読んだことのあるひとにはぜひお薦めです。イスラム教への関心をぐっと強めてくれた文章。

「シュトックハウゼン事件」:私にとってドイツの「作曲家」、シュトックハウゼンというのは特に関心の対象であったことはありませんが、この文章で中沢氏が注意を喚起しようとした内容には、非常に共感しました。この短いエッセイは、2001年9月(9.11直後)にハンブルク音楽祭で予定されていた音楽祭の目玉、「シュトックハウゼン作品の連続演奏会」に先だって記者会見に臨んだシュトックハウゼン氏が、そこでの「失言」によって作品すべての演奏会がキャンセルの憂き目に合い、しかもハンブルク音楽祭自体が中止に追い込まれる(さらには、同氏の作品の放送をその後テレビ各局がボイコットするところまで発展する)という大スキャンダルを扱う。この事件の経緯には明らかに意図的な報道の操作と陰謀があってこそ、シュトックハウゼンの行った9.11の事件に対する発言「あれはアートの最大の作品です...」が、大がかりなスキャンダルになり得たと中沢氏は説明する。発言の前後のコンテクストを無視した作為的な引用が作曲家に致命的な打撃を与えた事実を指摘し、さらに、芸術家や思想家の行なう<両義的思考>への世間(と言うか、ジャーナリストたち)の無理解と、ジャーナリスト自身こそが語りたかったことを有名「芸術家」をして語らせたあげく、その発言者をスケープゴート化させたまま、自分たちは安全圏に居座る、という卑劣さを告発する。これは、数年前にオーム真理教評をきっかけに中沢氏自身に降りかかったマスコミからの理不尽な非難と重なるところがあって、事の深層の調査に氏を掻き立てたらしい。

...あまり詳しく書くと面白みがなくなるかもしれないのでこのくらいにします。でも自信を持ってお薦めできる一冊です。

[1] エンデの遺言[根元からお金を問うこと] 投稿者:entee 投稿日:2003/12/20 (Sat) 20:41 <HOME>
テストがてらちょっとアップしてみます。

出版年はやや旧くなるが、この本を読んで我々の住む資本“至上”主義の世界の正体が分かった気がした。資本主義でも共産主義でもない「第三の道」としての経済システムがここに示されている。

キーワード:
■ マルグリット・ケネディ『利子ともインフレとも無縁な貨幣』
■ シュタイナーの経済思想
■ 地域通貨イサカアワー
■ シルビオ・ゲゼル

戦争やめるなら、「減価する通貨」を採用するしかない、と思えるほどのインパクト。親愛なる左翼系思想家・活動家にこそ手にとって貰いたい問題の書。未来の貨幣制度への入り口はここ。

[Res: 1] 重要な指標 投稿者:kuro 投稿日:2003/12/28 (Sun) 01:54
これは僕にとっても大変重要な本である!
自分の行動に確実に影響を与えた一冊。
ヒューマニズムを否定せずに僕らが幸福になるためのひとつの提案であり、多くの知性が大なり小なり似たベクトルの方向性を示しているように思われる。

[Res: 1] Re: エンデの遺言[根元からお金を問うこと] 投稿者:entee 投稿日:2003/12/29 (Mon) 17:01
Kuroさん、投稿参加ありがとうございます。

それに、『エンデの遺言』へのレスはとりわけありがたいものです。

これは書籍という形を取っていますが、そもそもNHK (BS?)のドキュメンタリー番組として制作されたモノでしたね。いわば映画の「ノヴェライゼイション」のドキュメンタリーフィルム版みたいなものですね。番組は何度か再放送されたようですが、どの回も見逃すという運の悪さ。でもその番組の内容をKuroさんが興奮気味に私に教えてくれて、その私が今度はその本を浜田山の小さな本屋で見つける、という縁の連鎖があった、という経緯だと思います。これには本当に興奮して立て続けに2度読みました。

地域通貨とは何か、と訊かれたらどう説明するのが一番手っ取り早いのだろう? 国の銀行が発行する貨幣と違い、国の経済状態に左右されない。時間と共に減価する地域通貨なら、「蓄財のための貨幣」という機能を持つことができないので、ものすごい早さで市場を回り出し、ほんらい通貨の持っている機能(モノを流通させて仕事を創りだす)を取り戻す。他国の通貨との交換レートとも関係ないので、投機的な海外投資家の気分で価値が下落したり高騰したりという事に戦々兢々する事とも無縁。インフレが起こらないということは、財貨として突然価値を失う畏れもなく、したがって戦争などの動乱とも無縁。良いことずくめの貨幣と言うことか。

とにかく読んで貰うのが一番手っ取り早いかも。(取り急ぎで失礼を。)

[15] 都市の地球学 投稿者:kuro 投稿日:2003/12/28 (Sun) 02:00
大変刺激的な本で、読んでいて楽しかった。黒川紀章って思った以上に凄い人でした。少しだけ、しかし確実に世界観が変わりました。

[13] 『ぼくは在日関西人』 趙 博(ちょう・ばく)著 投稿者:entee 投稿日:2003/12/25 (Thu) 18:15 <HOME>
「パギやん」の愛称で親しまれ、「浪速の唄う巨人」とも言われる“ギター弾き語り”(いわゆるソングライター)の書いた本...というと、何の変哲もない歌手の自伝本か?と思われそうですが、左に非ず、いやいやトンデモない本です。

「面白くてタメになる社会派」系の本と言えば、マイケル・ムーアの『バカでマヌケな...』を思い出しますが、それ以来の今年のMyスーパーメガヒットと私は高らかにここに宣言します(オレが宣言してどうする)。

先日、縁あって彼のライブというのを間近に聴くことがあったんですが、私は歌に素直に感動し、しかも泡盛の酔いも手伝ってか、その場でその本を買ってサインをして貰ってハグして上機嫌で帰る、というウルトラミーハーの挙に出た私は、次の日から一気に読んでしまいました。「在日」の方々の境遇について、私がただ無知すぎただけなのか(間違いなくそう)、とにかくその内容は衝撃が大きかったです。しかも面白く「本当にあった話」をしていく彼の語り口(実際に、講演の活字起こしだから文字通りの語り口)は、実にスピード感があって、しかも説得力と臨場感がある。とにかくこんなにアタマがいい人が唄歌ってたんですか!と、後から感激。関西で予備校の教師をしながらライブ活動をしているためか、その数々の「生ライブ状況」で鍛えられた彼のパフォーマンスからは、不敵な現場密着型の闘士という感じが伝わってスゴイ。こういう先生に高校の時であってたら、人生変わってたろうな。

パギやんのウェブページも紹介しときます。

[7] 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2003/12/22 (Mon) 20:02
内村鑑三 著・大内三郎 訳、注・講談社文庫

岩波文庫「余は如何にして基督信徒と為りし乎」を挫折したことがあるが、この翻訳は流れるように読めた。
本書を読んでいる間、株式証券代行会社での封入作業というアルバイトをしていた。360度を大きな機械に取り囲まれて、「重要書類」在中の星の数ほどの封筒を数え糊付きを確認する労働。朝9時前から夕5時まで黙々と単純作業を繰り返していると、神経がへんにならないように細かな工夫を人は気がつくと行っているもの、ポリリズムというのであらうか、何台もの機械がそれぞれ微妙に異なるリズムを出すので、いろんな音や言葉として聴こえてくる。4ビートだ、これワルツだワと感動する瞬間が停滞していた活力を呼び起こす。けれどもこのような状況下での読書であったか否かはどうでもよいこと。著者の言葉に添うて言うなら本書を「哲学する材料」、として私は栄養にしてしまい、細胞裡にそれは今も在る、感じる。ここでの「哲学」というのは、内部で生まれた問いや感じに真摯に誠実に自分の思考と言葉で取り組む作業を怠らないことであろうかと思う。昼休みになると、そそくさと弁当を食べて、残りの30分程を読書に当てていた。数百人が憩う社員食堂で黙読する少数者の1人となり本書を読むことは愉しみであったが、しばしば声を大にして朗読したくなったり、感嘆の叫声を上げたり、さめざめと涙してしまいたい衝動を抑えるのに少し困った。けれどもそれも瑣末なこと。幼少時に愛読した「天路歴程」という宗教的寓話の作者がバニアンという人物であったことを本書によって確認できたこともさいわいの一つである。

[Res: 7] Re: 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」 投稿者:石川はじめ 投稿日:2003/12/23 (Tue) 12:57
僕の高校は講堂に内村鑑三の肖像や書が掲げてあるという環境でして、「余はいかにして・・・」は必読書のひとつでしたが、生徒の間では「ヨハイカ」と略称されていました。(矢内原忠雄「余の尊敬する人物」というのも必読書でしたが、こちらは「ヨノソン」と呼ばれていました)。

あと、「天路遍歴」の原書が英語の教科書でした。「ピルグリム・プログレス」というやつでしたが、これは「ピルグレ」とは呼ばれていませんでした。

[Res: 7] Re: 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」 投稿者:Aquikhonne 投稿日:2003/12/23 (Tue) 16:29
<<「天路遍歴」の原書が英語の教科書でした。「ピルグリム・プログレス」というやつでしたが、これは「ピルグレ」とは呼ばれていませんでした。>>

いいですね〜おそらく流麗でドラマティックでシンプルな文章なのでしょうねえ、私はいま読みたいです。

[Res: 7] Re: 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」 投稿者:entee 投稿日:2003/12/23 (Tue) 18:54 <HOME>
よし。「ヨハイカ」が終わったら今度は、「内村鑑三の末裔たち」(稲垣真美著)だナ。北海道に“シオンの丘”を作って伝道をした浅見仙作の死刑囚伝道の件(クダリ)は涙なしには読めませんでした、私は。(この浅見仙作というのは、山本七平の批判者・論客・浅見定雄と血縁なのかな?)あと、「末裔たち」には『余の尊敬する人物』の矢内原忠雄のことも出てくるけど、本書では、その弟子の西村秀夫という人のことがメインになってたな。それで、ここでは矢内原忠雄のページの幾つかのリンクを。(ここで見ると、新渡戸稲造は内村と同級だったことが書いてあり、しかも新渡戸はクェーカー教徒だったことが...)

http://www8.ocn.ne.jp/~kunio/yanaihara1.htm
http://www8.ocn.ne.jp/~kunio/index.html (ΚΟΙΝΩΝΙΑ)

(稲垣真美というひとは、お酒の本を半ダースほど書いてますが、彼の専門は何だったんですか? 誰か!)

[Res: 7] Re: 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」 投稿者:石川はじめ 投稿日:2003/12/24 (Wed) 21:25
> http://www8.ocn.ne.jp/~kunio/index.html (ΚΟΙΝΩΝΙΑ)

またよく調べてあるサイトですねえ。どういう人が開設しているんでしょうか。無教会関係の人でしょうか。

[Res: 7] ΚΟΙΝΩΝΙΑ 関連 投稿者:entee 投稿日:2003/12/25 (Thu) 13:38
<< よく調べてあるサイトですねえ。>>
全く同感。出している本人は自己紹介もしないで情報だけアップしているんですな、これが。直接メールで連絡するよりほかないでしょう。

う〜む。別にここは無教会派掲示板ぢゃあないんですが、ΚΟΙΝΩΝΙΑを見ていたら、こんな言葉が出てきたので思わず書いてしまいます。

<< 矢内原忠雄曰く、

内村鑑三の無教会主義は、‥‥‥‥

第一、彼はミッションと関係をもちませんでした。外国ミッションから金をもらわないということが、内村鑑三の方針であり、彼は終生(しゅうせい)それを守り通したのです。>>

これは、自分の信仰と信仰活動の自由を守るためだったからだと思います。「外国のミッション」をパトロンにすると言うことは、その勢力によって自由を制限されるということです。(内村はキリスト者でしたが、外国の教会に妥協しなかった部分ではきわめて「愛国的」です。)でも実は、こういうことは信仰に限った問題じゃなくて、どんな表現の自由に関しても言える普遍性を持ったことだと思います。

<< 第二に、彼は教会をつくりませんでした。‥‥‥このような信仰以外の政治的な権力とか、社会的な勢力とか、経済的な財産のようなたぐいのものをいっさいもたない。そういうことに煩(わずら)わされないということが、無教会の一つの特色であります。信仰だけ、信仰のことだけ、それ以外に守るべき勢力というものはない。‥‥‥‥ >>

「信仰だけ、」と条件付けてますが、これもいろいろなことに適用できる普遍性を感じます。派閥としての徒党を組まないと言うこと。これも自分が学べることのひとつだなぁと感じるところで、実に重い部分です。

[2] 「正しい戦争」は本当にあるのか 投稿者:IqueGuami 投稿日:2003/12/20 (Sat) 23:21
著者:藤原帰一
出版:ロックング・オン

 というわけで昨日読み終わりました。藤原氏へのインタビューを活字に起こした形になっているので、読みやすし。

 藤原氏は、国際政治学者の立場から見た「リアリズム」にしたがって語る。基本的には反戦・平和主義の立場だが、理想論てきなそれではなく、「損失が最も最小に抑えられる道」としての平和を説いている、と言えば分かりやすいか。
 その「リアリズム」ゆえ、彼は軍隊としての自衛隊の存在を認めたり、国連PKOを通しての自衛隊海外派遣には積極的だったり(今回のイラク派遣とは別物であることに注意)、独裁国家である隣国との共存を認めたりする。
 人によってはこの「リアリズム」に抵抗を感じるかもしれない。が、今この国が直面している状況を考えると、彼の議論は単に平和を説く言葉より、単に勇ましいだけの言葉より、現実的な力を持って響いてきた。

[Res: 2] Re: 「正しい戦争」は本当にあるのか 投稿者:entee 投稿日:2003/12/21 (Sun) 00:35
早速の「投票」ありがとうございます。

“現実路線系反戦主義”といったら語弊あるんかな。でも、こういう損得勘定の視点というのが「こくえき」を考えるということなんですよね、たしか...。そして「たとえ世界を手に入れても、自分自身を失えば何の意味もない」という視点こそが取り戻されるべきなんでしょうね。(でも、まずは自分で近々読んでみよっと。)

われわれの間ですでに話題になった本でも、ためらいなくどんどん再紹介して下さいね。

[Res: 2] Re: 「正しい戦争」は本当にあるのか 投稿者:IqueGuami 投稿日:2003/12/22 (Mon) 13:32
“現実路線系反戦主義”という解釈で間違いないと思います。隣の独裁国家との共存の件について言えば、「中から変わらないと変わらない」という内容の話に大いに頷きました。とくにイラクやアフガニスタンの現状をみていると。

本の内容からは外れますが、「国益」を考えることは、それはそれで仕方のないことだと思います、が、これは緒方貞子氏が憂慮していたことなのですが、今の日本政府や日本人の「国益」観は、かなり狭いところに入りこんでいる嫌いがある。どう転んでも独りで生きられないのだから、他者・他国にも益するところのある「国益」を目指す必要があるのだと思います。