衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

見えていて損をすること?(IHに捧げる)

December 9-10, 2003
 
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彼は分かってしまうから色々考えるし言うわけだが、それが共同する仕事仲間に共有して貰えないとなると、彼の視ているそのことがらは無駄なものとして役に立たず仕舞いになるかもしれない。でも考えてみると、特に深められた知識や思想というのは、それが共有不可能であるほど深められる(あるいはぶっとんでいる)と、一層このように無駄なものとして無視されてしまう可能性がある。悲しいことだが。

ランドスケープをやっている“現実庭師”の石川初が、ある土地を上空から鳥瞰したような視点で見る(ということは、その土地自体を独立したものとして見ているのではなくて周辺環境という文脈の中で土地を眺めようとしている)ことを心がけていて、土地に関してそのために分かることというのが色々あるらしいのだが、その視点で見る人が、石川以外に存在しないことになると、結局彼が見ている“景色”を人と共有することが出来ない。それでも伝えようとするのがみえている人のやることで、時間を割いてその説明に付き合わされた方は、時間と資源の無駄だと感じるわけだ。石川を友人として知っている自分としてはやれやれという感じになる。

「盲人の国では片目開きが王様になれる」というような言い方があるように聞いたことがあるが、それはH・G・ウェルズがその短編小説『盲人の国』の中でいみじくも解き明かしたように、それはウソなんだろう、おそらく。見えているひとは、盲人の国では狂人扱いされるのが関の山で、盲人達からは足を引っ張られて「そのようなものが見えている方がおかしい」と言うことにさせられる。その短編で、“両目開き”の主人公は、村の長老達に、額の下にある“ぱちぱちと動く妙な器官”(目のことだが)のために可哀想に気が狂っているのだ、と結論付けられ、それを取り除く手術をしない限り、主人公は恋している村の美しい娘とは一緒になることが許されないということになる。結局彼は盲人の国で王様になるどころか、その国を命からがら脱出することを選ぶ。恋人を捨てて...。

見えていない人が、見えている人に、「見えているということ自体がおかしい」と言うのは、客観的には全くの不条理だが、現実では、だいたい見えていない人たちにこそいろいろな決定権があるのがフツウで、しかも声も大きかったりする。こうしたひとは、まさに「見えていない」ためにいろいろなことをためらわずに決定することが出来たりして、しかもその“能力”のためにそうしたポジションを占めていたりもするのだろう(別に石川の周りのエライ方々がみんなそうなんだと言うことをいいたいんじゃないけどネ)。脱線するが、憲法違反の軍隊を法律にも適っていない状況で、海外に送るようなことを国として決定する、みたいなことも、こうした全体が見えていないからこそ可能なのだと思えてしまう。見えていると「ためらい」が生じ、ある意味見えていないからこそ「おおたかの巣」を無視することさえわれわれ人間共には可能なんである。

こうなってくると、実感を以て伝えるということの重要性が再びアタマをもたげるわけで、見えている人が何がどのように見えていて、「それが見える」ということはつまりどういうことなのか、見えている人は、どういう「良い目」に遭っているのか、というあたりを本人ほどではないにせよ、必要な人に追体験させる、みたいなことを計るしかないのかもしれない。「優れた言葉」というものは、言葉自体ばかりではない。それは言葉のようなもので伝えられることもあるが、必ずしも正面切っての議論によって伝わると言うよりは、むしろそれは伝えたい相手と一緒に散歩をしたり、同じ音楽を聴いたり、映画を見たりすることで「伝わる」ことがあるということを、もう一度思い出したいのである。なんかあまり役に立ちそうもないが...。

(趣味が仕事になっている人にも苦労は多そうですな。でもガンバレ!)


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