音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

わからないはずもない
November 16, 2000
 
English version

(Nov. 6, 2000)(Nov. 13, 2000)(December 7, 2000)

私はつい先だって、そう簡単に門外漢に分かってたまるか、とあらゆる専門領域への「本質的アクセス困難論」みたいなものをぶち上げたばかりだ。それを読んで「然り!」と膝を打った方ほど、この続編を読んで大いなる失望を(あるいは裏切りを)経験するかもしれない。いやそうであって欲しい。そう。この二つの論は一見まったく矛盾したことを主張しているようにしか聞こえないかもしれないが、このふたつの論は一つの対象における二つのまったく別の局面(モノの裏表だ)について語っているのであるから、まったく矛盾はない。

表現されたモノの善し悪しはむしろ多くの人々(一般鑑賞者)によって容易に判断されうる、いやそうではなく、このたびは、一般鑑賞者が善し悪しを「分からないはずもない」ではないか!という論を展開しようというのである。これは、「一般」の正直な方々からは、「当ったり前じゃないか」と言われそうな話である。しかし、この普通の人々にとって当たり前のことが、当たり前として考えられない人ばかりが集まっている「芸術領域」がこの世に存在する以上、そういう話をせざるを得ない。

私は確かに「仕事の複雑さやその流れや体系、そしてそこから得られる苦しみや歓びは、部外者には容易に理解することができない」とは言ったばかりだ。だが、作品、表現されたモノ、仕上がり、あるいは創作結果については、思いのほか容易に判断ができる、という見解を同時に持っている。もちろん、どんなモノでもそれを味わうのに鑑賞者の側にある程度の時間や忍耐を要するものがあるという原則にかわりはない。しかし音楽でも書でも料理でも何でも良いが、ある様式なり形態を持った創作形式の作品Aと作品Bを比べたとき、「Aの方が好い」とかいうようなことは、実はかなり容易にだれにでも言えることのように思う。しかも、単に個人的趣味(テイスト)を越えた意味で。

ようするに、すべては「好みの問題」なんだ、という作る側に便利で味わう側に不便な考え方にしがみついている人に対して言っているわけだ。もちろん、好みの問題というのは別の次元では存在するが、それとこれとは別の問題だ。辛口が好きか甘口が好きか、スローテンポが好きかハイテンポが好きか、小説が好きか随筆が好きか、これは確かに好みの問題だ。ふたつの「食しうる」食べ物について語っているとき、辛口は絶対ダメとか甘口は絶対ダメとかひとによって在るわけだ。しかし、セメントコンクリートを「食しうる」食べ物と前提して考えましょう、となると、それは単に好みの問題としては片づけられない。

不思議なことだが、経験的に言って自分ができない「書」や「絵画」でもレベルの高い二人の表現者によって作られた2作品のどちらが優れているかなどということは、単に趣味(テイスト)のレベルを超えて判断できると信じる。あるいは判断の基準を作ることもできる。そして、仮に基準として作られたとしても、それにはいくらでもその基準の根拠を示し、その関係者にそれを納得させることもできる。言ってみれば、これは人間存在を度外視した普遍的な価値や美を認めよ、といった発言ではなく、習慣とある程度のトレーニングとでもって、ほかでもない人間に、感性・判断力・功利性として、あるものがあるものに比べて「より高い価値を保持する」と判断する内的基準を先天的に持っているか、あるいは、すくなくとも後天的にも構築可能であり、それはまた共有可能であるという信念である(でなければパブリックでパフォームする意味がどこにある?)。

もちろん、「先天的に」そのようなものが本当にあるかどうか、となると、それについては「いまだ分からぬことが多い」としか応えようがない。ただ、音楽を例に取れば分かりやすいが、和音の協和/不協和(音と音の間の物理関係性)を耳が聞き分ける能力(これを便宜的に「感性」あるいは「音楽的感性」と定義してもいい)を持ち合わせていることはかなりの可能性で確実だ。それは、単にわれわれの先祖の思いつきにより始められ、強制的なトレーニングによって子孫にそのような「感性」を培わせた、とかいう類のものではない。こんなことを言うと、西洋の伝統が生み出した和声だけが唯一ではない、などと当然の「反論」が予期できるが、そんなことは当たり前である。 そのような非西洋的伝統の「和声」も一つの感性によってうち立てられた法則の一つであるというのがこの論の主張であり、人為的に理解困難にされた「深遠な」セオリーによってモノを作ろうとするひとびとに対する批判こそが、この論の目的なのだ。

また一方、ある種の象徴の包括的理解ということが、時代や場所を越えてある時突然爆発的に行われることがある、という「事実」を考えると、ある種の象徴の「意味」(それを私は一般的な意味での「美」とか「価値」とは呼ばない)の伝達が、共有された象徴の基本単位の認識として、ある種、先天的に保持されているように思わせることがあり、「感性」の存在を以てしないと説明不可能だ*。ある図形や色彩が持っている人間の心理に与える影響力のことである。

*このユングさんの元型論を思わせる(が意識したものでない)主張は大事なことではあり、こちらにこそ本質的に語る価値のあることだと信じさえするが、本論の主旨からやや外れるので、深入りはしない。ただ、この点にこそ深入りするべきだと主張する向きには、こうした先天的能力によって解き明かしうる「意味」を保持する「作品」にこそ、私が括弧「」なしで芸術・芸能と呼ぶにふさわしい真髄(第五元素、quintessence)があると考えている、と述べておくとともに、他の筆者の拙論も参照する事を奨める。

これも当たり前のことを書いているのであるが、たとえば華道の素人とその道の熟達者の二者が活けた二つの花の作品が眼前にあるとき、全くの素人にとってさえ、玄人の活けた作品により高い価値を感じるだろうことが予想され、こうした判断を可能にする感覚はある程度教育なり習慣などによって備わりうる、ということを意味している。鑑賞者は花を上手に生けられないかもしれないが、見て判断することができたりするのである。それは、「古典」音楽の演奏についても言えるだろうし、美術の世界に関しても同じことが言えるはずだ。同程度のレベルにいる二人の玄人のあいだの作品や演技の質を比べることは確かに難しいかもしれない。しかし作品自体を演じたり作ったりはできなくても、上級者と初心者のあいだの違いを言い当てること位はできたりするのである。現に、世界の「スポーツ」の檜舞台であるオリンピック---そこは各国の文字通り最高クラスの玄人演技者が集まる場所であるが---における競技でも、われわれからすれば途方もない技術を持って舞台に臨み、そのもてるだけの技量を発揮している各国の代表選手達のパフォーマンスの間でさえ、われわれ素人の判断がいかに専門家のそれに近いか、を知る格好の例として考えられるだろう。こうしたわれわれが日常的に経験する一連の判断自体を否定する確信犯的な「芸術無政府論者」も当然いるだろうし、彼らが否定するのも故なきことではない。しかし、もし今述べたような判断基準や判断能力がないのだとすると、現在存在している素人による「芸術」愛好自体が成り立たなくなるであろう(そして芸術無政府論者は成り立たなくなればいい、とまさに思っているはずであろう*)。理解できる人がそれを直ちに創作可能であるはずがないし、反対に創作できないからと言ってその人がその内容を理解できないとも限らないのである。

* なぜなら、そのような判断基準をなくすことで、自分の奇抜なアイデアや新奇な方法論の存在とそれを造りだした本人の「独創性」を初めて正当化できるのであり、伝統的価値観ほど彼らにとって都合の悪い存在はあり得ないからである。自分の存在価値を守るためにあらゆる伝統的価値や手法は否定しなければ済まないのである。が、一方こうした無政府論者の、初めて伝統を転覆させたと信じている芸術界に於ける最初の「革命家」を崇拝し、その「革命家」の造り出した文法なり手法なりを受け容れる「素直さ」には注目すべきものがある。

まず、何度も他のところで繰り返しているように、芸術 (art) は本来あらゆる種類の「人間の技術」を意味していたわけであり、われわれが現在「芸術」として認識されているもの(いわゆる、エンターテイメントに接点を持つすべての表現的創作)だけが他のあらゆる専門技術に比べて特殊であるわけではない。それらが一見特殊に見えるのは、その説明不可能なほとんど不可解なまでの手際の複雑さにあるのでなく、それらが大いなるエンターテイメント産業に近接して(あるいはそれ自体がエンターテイメントとして)存在するためにこそ、「特殊」な技能として認識されているのである。しかし、たとえばわれわれがどのようにしたら埋設してある水道管を壊さずに旨く地面に深い穴を掘ったり、根を腐らさずに木を植えたりすることできるのかを容易に想像できないように、すべての「人間の技術」が本来的に「やってみなければちょっとやそっとでは分からない特殊技能」なのである。

専門職がこの世に存在し、「芸術」あるいは「芸術的なるモノ」が産業として成り立っているということ自体が、専門家がそうした多くの「素人の判断力」に大いに依存している動かされざる事実を示している。自分ではできないが「違いの分かる」という多くの人々があってこそ、専門家の社会における「仕事」のやりとりや「芸術」作品の流通に意味がある。あらゆる人が、自分の作るモノの専門知識や技術が「自分よりちょっとずつ少ない」隣人のために仕事しているのである。すべての隣人が同じ分野に等しく労を払うことができ、且つ同じ結果が得られるのであれば、そもそも分業をしてきた意味がない。たとえばアインシュタインの理論の「途方もなさ」は、多くの物理学者によってさえ、その思考過程を「実感」されなかったはずだが、それでも「アインシュタイン」以下の学者達によってその重要性が「評価」され、また「応用」「完成」されたわけである。完全に証明を再現できないものでも、その正しさをかなりの精度で多くの人が「予想」することができるわけである。(ここでも何が良いとか悪いとか言う価値判断を下さずに問題を語っているのである。)

もちろん、前編でも述べたように、作りだす人が作りだす過程で得られるかもしれない苦悩や喜びというものが格別であることに一向変わりはなく、より深く創作過程に関わることのできる人だけが分かる世界というものが、どの分野にもある。この点で、前編の論旨を否定するものではない。それどころかそうした内部の者にしか実感できない秘密の満足や誇りというものがあるからこそ専門職の存続が可能であったのだ。ただ、それを一般鑑賞者に専門家が口頭で説明し始めるとそれは、「能書き」と聞こえてしまうわけである。

ただ、音楽家や詩人と呼ばれる者が、実は創作する側の人間にのみ適用可能な「呼び名」なのではなく、広い意味で、それを理解できる受け手の側の名称でもあり得るという点は、今回の主張の中で新しい論点であるかもしれない。すなわち、詩が本質的に詩人にしか分からない言語で書かれたモノであるという前編の主張が、その通り正しいのであるならば、あなたがある詩を理解したとすると、詩を書くことは直ちにできないかもしれないが、あなた自身も詩人の類である(詩人に備わっていなければならない必要条件のひとつを持っている)、ということなのである。すくなくとも、音楽を理解できなかった者が音楽家になる可能性がないだろうということには、かなり高い確実性がある。

ただし、一度も理解することができなかったし理解しようともしなかったものが、ある日突然ひらめいたように分かってしまうことがある以上、将来その人がある表現者としての能力を遅ればせに開花しないとも限らず、遅咲きの才能や潜在能力というもの自体を否定する意図もない。一度も関心を持たず、理解できる要素がその中にあるとさえ思わなかった人が、ある日突然啓示を受けたように、たとえば茶道の作法の中にある真実を見出す。先ほどのセオリーから言うと、あなたは茶道の熟達者ではなくても茶人たれる可能性があるということなのだ。その意味で、創作過程での熟達者と初心者のあいだの差を考えると、その技術的な差は時間と忍耐で埋めるしかないだろうが、その本質の理解はある意味で一足飛びで到達しうる距離にあり、広い一般人に公平に開かれていると言っていいのかもしれない。ただ、ありそうなこととして、大概の人が鑑賞するというところまで行き着かず、入り口のところで一旦立ち止まりはするものの、くるっと回れ右をして引き返してきてしまうことが多い*だけの話だ。

* しかし、こうした一般人を振り向かせるために、作品の内容に影響の出るような簡便化(敷居を低くする)は、表現者として安易に採るべきでもない、と前編で述べたのである。

さて、音楽に話を持ってくるとすれば、演奏者の側に立とうとするわれわれが、ただそれを聴いているだけの人より、多くの苦悩や喜びを経験するだろうし、そこにこそ音楽の真髄があると信じたとしても、なんらアンフェアでないが、われわれの作りだす結果たる「作品」の善し悪しを、ことのほか簡単に「素人」たる一般聴取者が聴き当ててしまうだろうことに覚悟をもって臨むべきだ、ということなのである。もちろん、簡単に分かるか何度か聴いてはじめて分かるか、の程度の差は分野や方法論の違いによって必ずあるにしても。

保守的と言われようが「反動」的と言われようが痛くもかゆくもない。自然や人間心理に潜んでいる法則の普遍性を理解し最大限それらを利用して意味として感受可能なものを作りだし「具体的な身体行為」を通じて発信する技術、それを持つ熟達者たることが括弧「」なしの芸術家である。 そして、それ自身になれないとしても、それを目指すことにこそ人生の意味があると信じる。自分が近づきがたいと感じて、「あの葡萄は酸っぱい」と捨てぜりふを残してその場を発ち去るより、本当はその葡萄が欲しいのであるのなら、それを得る努力をする方が、「食べられない葡萄を新たに発明した!」とうそぶくより、ましな人生を送れるだろう、ということなのである。

(完)

伝統の価値観が現今に見られるrating systemを造り出し、不幸を招いてきたという主張には条件付きだが確かにひとつの真がある。絶対的価値を芸術表現のどこかに認めることが、そうした「評価のシステム」に結び付くということに警戒する向きには、builtl-in authorityを内側に打ち立てよ、自分の(満足の)ために仕事をせよ、が重要となる。しかしそのためには、もっとも厳しいcriticを自己の内に住まわせることである。


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