衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

都響は都民のものだったか

August 22, 2004
 
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暗い話題と言っていいだろう。こういうときに一体自分はどういう「立場」を取るべきなのか、にわかには判断が付かないのだ。


東京都交響楽団(都響)の楽団員が全員解雇され、有期契約(契約が定期的に更新されなければならない)の団員として“再雇用”強いられるかもしれないという「制度改革」の話が出ているという。例によって石原知事によって強行されそうな模様。まったくの初耳だ。知人の楽器の師匠が同団員であるから、かなりのリアリティでもってその話が迫ってくる。実は、この「改革」の意味に限って言えば、正直言って自分の立場は決めかねる所なのだ。音楽家ユニオンというものの良い点悪い点を知っている(つもりの)自分としては、複雑な気持ちである。

音楽家ユニオンの在り方を、純粋に「より良い音楽の構築」という別の視座から眺めると、いろいろなことが言える。しかし、下手をするとそうした物言いはそのまま石原都政を支持する言説のようにも聞こえかねないので、これを語ることには実のところためらいもある。

個人の演奏家が行った演奏“労働”に対して、雇用者が給料の支払いをせず踏み倒すというような明らかな横暴に音楽家が面したとき、個人の音楽家が頼れる組合の存在というのは重要だ。いわば、自営業や個人経営者の人が入ることのできるユニオンみたいなものだ。そういう存在は力強い。しかし、非難を覚悟で言ってみれば、一般の労働者よりも遥かに多い年収を保障する場として機能してきた「自治体経営のオーケストラ」のような組織は、いわば「既得権」を護持するためにユニオンが機能する。

むろん、団員として合格するだけの演奏技能を身に付け、難しいオーディションを勝ち残って得た既得権であるとは言え、その音楽家としてのステータスが、一度得たという理由で無条件的に終身保護されなければならない理由はない。とりわけ、芸術家のステータスというものなら、自治体の職員の名の下に保障されるべきものではないだろう。本来、彼らの収入や社会的地位というものは、自分らの創作を通じた努力によって追求されるべきものだ。それが、都響の団員達の場合は、都の「準職員*」であるというような二重のステータスがあるものだから、事情は複雑になってしまう。

* 実際には財団法人であり、都の外郭団体という位置づけになる。「公務員ではありませんが、都からの補助を受け、これまで経済的に安定していました」とある。(「都響ジャーナル・ユニオン都響公式サイト」より)

同じ「守る」と言っても、権利主張者によって「守られるべきもの」のレベルは多様だ。その多様性のために、「守るべき目標」が、無条件的にすべての労働する芸術家達や表現する者達からさえ共感を得るとは限らない。団体の被雇用者としての側面を持つ都響の団員が、ユニオンを組織する権利は、当然ある。しかし、彼らの主張やそれによって「守ろうとしているもの」に関しては、税金を払う立場である都民が、それをどう考えるべきかという論議自体は、(石原都政を支持するかどうかというような)政治的レベルとは違う次元で存在できるのだ。

一労働者としての、(あるいは平和政策支持者としての)筆者は、心情的にユニオンを支持する。すなわち、「戦争政策反対」の牙城として、多くの団体職員の組合組織の存在価値を評価できる。しかるに、ユニオンが「権利」として主張するある種の既得権護持に関しては、自分自身、個別に(ケースバイケースで)意見を持たざるを得ないのだ。労働する者達へのシンパシーと、自分の信じる“表現者の「公共」からの自立”という哲学の間で、考えは分裂し、引き裂かれる。

まず、その理由のひとつが、筆者は“「公共」が口出しをするような「文化活動の振興」”の価値そのものを信じない。これは、最近書いたばかりの主張や、普段からボクが主張している論旨*の延長だ。実は、それが一番大きな理由だ。自治体が直接運営する音楽集団という存在自体が、音楽家(表現者)は自立していなければならないという私の持論から言うと、矛盾を持った存在だ。だが、一方、オーケストラや映画といった集合的動機や集団による人間の組織化が前提とされているような芸術形態に関しては、持論が必ずしも唯一正しいモノとは言い切れない面もあることは認めざるを得ない。

自営や個人経営者として“世間”と直接対峙している筆者のある友人によれば、そのまた知人がこの「改革」に対する反対は、「何、甘ったれたことを言っているんだ、というような感慨を持つ」とはっきり言ったらしいが、音楽活動を手弁当で支えている筆者にもそれは理解できることだ。なんで、「高尚」と言われる、あるいは「文化」であると「公共」からのお墨付きを貰った芸術分野だけが、都民の税金でまかなわれなければならないのか? 石原が出現する以前にだって、こうした疑問は提示されて良かった。なぜなら、古典に限らず、どんな芸術分野でも、自治体や政府による補助を受け容れた時点で、それらを批判するラディカルな主張を作品に包含させることはできず、そうした主張の権利そのものを、表現者が自ら放棄することにつながる。唯一、この点に関して考えると、「都響団員の権利を守れ!」と彼ら一緒に旗を振ることはできないのだ。

オーケストラの団員も、全員が(芸術の)個人経営者として、オーケストラという法人格と契約をするという考え自体は理に適っている。ボクの考えでは、その契約と更新によって、オーケストラの団員同士が競争することはないが、オーケストラの団員が、つぎつぎにやってきて入団を希望する若手の演奏家達に負けないように自分たちの技術を磨き続けることにはつながろうし、そのことは「芸術・文化」にとっても悪いことではないだろう。むしろ、あたらしい入団希望者という絶え間ない「外敵の侵入」に接して、オーケストラの団結はより強まることはあっても、団員同士の敵対(競争)には結びつかないだろう。*

* 「オーケストラのサウンドは競争ではなく協奏で創るもの!」というユニオンの主張に対する、ボクの個人的感じ方。

彼ら都響や支持者の言うところの「みんなにとって(都民にとって)の大事な文化」という言い方は、オーケストラやクラシック音楽が確かに「守るに値するもの」であることを説得するのには有効そうに聞こえる。だが、たとえばどんなにその音楽が素晴らしいものだと自分が思っていたって、それが「みんなにとって等しく大切なもの」であると思うのは錯覚だ。つまり「あるべきだ」などと思うべきではない。みなそれぞれが、自分の大事だと思うモノを自力で守ろうとできるだけなのだ。

一部の人は、その大事だと思えるモノを「文化」だとか「芸術」だとか勝手に呼ぶわけだが、それに携わる当事者が、自分のやっていることを「大切な文化」だとか言うのを聞くのには、やはり違和感を覚えるのだ。それは「私・ボクという具体的な個人にとって大切な文化」に過ぎない。

だから、「都響が都民の心の要求によって設立され、愛され続けてきた」(中村紘子・ピアニスト)と言うが、都知事でなくたって、そんな「心の欲求」があることは都民であるボクさえも知らなかった。勝手に、都民という「全体を示す主語」で私の意見を代弁しないで欲しいのだ。(「都民」という単語が、主語を複数形にする、という危険を冒している。)

だから、厳しい言い方をすれば、都民がそれを守らなければならない大切な文化であると思わなくても、全然構わないのだ。「東京都はなぜ今まで大事な税金を使い、都響を守り、育ててきたのでしょうか? 設立趣旨にある、(音楽教育の機会を子どもたちに与えることとともに、オーケストラ文化を身近に触れることのできる環境をつくること)が私たちの使命だと考えています。」しかし、都民の実感として、彼らがわれわれの誰もが行けるような料金でコンサートを提供してきたとはお世辞にも言えないし、私がこどもの時に、都響を聞いて感動したという経験もない。

ただし、政治戦略的に考えると、芸術団体に圧力を加える石原都政とどう闘うか、という別視点も当然あり得る。その視点から言えば、いまここで都響を支持するという行動上のオプションはあり得るのかも知れない。しかしそのためには、ユニオンのサイトにあるような「都民の文化を守れ」というような論理では、いかにも弱すぎるのだ。自分達(芸術家)の愛する文化・芸術に対する危機意識はよく伝わったが、大多数の人々に関係のないクラシック音楽文化の危機を自分の問題として考える都民は、はやり少ないと言えるだろう。

都響のユニオン

毎日新聞 >> あなたの値段>>オーケストラ

「音楽の友」に載った記事(@ Yahoo)

TOKYOはたらく仲間(東京地評)で都響問題を取り上げる記事

(どんな意見を持つにせよ、いろいろな立場の言い分を聞くと言うことは、自分の思考の鍛錬になるのだ。 )


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